『ふがいない僕は空を見た』

 『芋たこなんきん』の正気ではないキャスティングをわたしは思い出すのだ。徳永家の茶の間で國村隼の隣に田畑智子が妹として鎮座して微笑を湛えている。それは兄妹にはとても見えないはずなのだが、智子の童顔には人の錯視を誘いかねない、腐った果実のような年齢不詳の力が備わっていて、受け手の混乱に拍車をかける。
 それから10年弱が経った本作では、年齢不詳力が逆向きに作用して受け手を、いやわたしを苛む。
 智子は三十路のオバハンだ。それが魔法少女のコスをやっている。これは痛々しい事象であって、こちらもそう受容しようと努める。しかしわたしは智子がすきだ。そしてあの童顔の年齢不詳力がまたしても禁忌の昂奮を勃興させるのだ。これはオバハン、でも、いやだからこそかわゆい。
 もっとも、智子の有様は痛々しいという物語の前提も承知はされるので、高校生の永山絢斗が智子を拒絶してももっともなこととして、彼への同情は損なわれない。それどころか、智子ったら、拒絶されると「あなたはわたしから離れられないんだから」とキレるのだから、身を弁えないその自信が、語り手が想定するような彼女への不快感をようやくもたらしてくれる。
 例によってこれが誤誘導すべく仕込まれた語り手の自意識の韜晦なのである。智子が痛々しく叙述されるのは、受け手にそう思ってほしいからであって、語り手の本音は別のところにある。実のところ永山は熟女の沼にはまり込んでいた。智子の自己認識は正しいのである。
 永山の本音が露見する件は、高校生が熟女の沼に嵌められた事象自体の催す笑いも手伝って、彼の人の良さを存分に伝えてくる。仕組まれた予断は永山の徳性を笑いとともに醸成する。しかし、回想のかたちで智子虐待劇場が始まると、もうやめてくれと笑いは凝固し、ミツカン追いがつおつゆが走馬灯のように駆け巡る。どれだけ智子を愛していたのか、わたしは思い出したのである。

 『刑事追う!』の「その妹」(扇澤延男脚本)が叙述する近代化論は教条的なほどストレートである。ヒロインには殺人で服役中の兄がいる。ヒロインは兄のために不利益を被り続けるが、血縁を気にしない婚約者にようやく恵まれる。婚約者の母も如何にも善良な感じで、感激したヒロインは母に兄の存在を打ち明ける。ここで母の本性が出て事態が”マンガ”になる。彼女はマンガになるからこそ、その紋切型の強烈さで受け手を圧倒してしまう。しかし本作の人物や事象は、三十路の人妻が魔法少女のコスプレで現実逃避というように、最初からマンガである。夫はマザーコンプレックスであり義理の母は血縁部族主義者である。バイト先の先輩は三浦貴大ロリータコンプレックスである。永山は智子とのセックスを盗撮されネットに拡散され不登校になる。個々の事象もどうかと思うのだが、これらをひとつの文脈に配置するとマンガとしか言いようがなくなる。
 類型性自体は現実と物語のつながりを見失わせない。現実の人も境遇や立場によってマンガな言動を強いられてしまう。類型を恐れない精神はまた現象に介在する恣意や偶然の強さを隠そうとしない。それが問題なのだが、「その妹」がそうであるように、あえて通俗であることによって獲得できるものもある。
 智子は永山との情事の現場を鬼母に抑えられてしまう。「離婚させてください」と智子は土下座する。しかし子種が欲しい母はそれを許さない。尺はまだ1時間以上残っている。見てる方も地獄な訳だが、ここで話は智子から離れ地獄は突き詰められない。窪田正孝の底辺生活も階級脱出ものの様式に組み込まれる。他方で彼の階級移動を導く三浦貴大の性癖が受け手を安心させてくれない。キャラクターは不幸と幸福の間を頻繁に往来する。恣意や偶然の緩さは不幸と幸福のさじ加減を可能にして、受け手を我に返さない。智子の年齢不詳なる多義的な沼も、現象の可動域の広さとそれへの鷹揚に効いてくるのだ。