人は悲劇に慣れてしまう。あるいは麻痺してしまう。人死にが1名出たら不快である。1人が2人になればますます不快であるが、不快の増大量は逓減するように思われる。0名から1名の人死にが生じた際に増大する不快量の方が、1名から2名に追加されて増大する不快よりも大きい。
これを先に検討したトロッコ問題に適用してみる*1
トロッコが暴走している。このままでは5名の作業員を轢き殺してしまう。
この際、わたしが転轍機が操作すればこの5名は助かる。しかし進路を変えたトロッコの先には別の作業員が1名いる。
8割の被験者が転轍機の操作に躊躇しないという話だったが、わたしはポイント切り替えに躊躇を覚えた。トロッコの暴走はわたしの責任ではない。したがって、5名の轢死は不作為である。ところが転轍機を動かして1名を轢き殺させてしまうと、作為の感じが出てきてしまう。これが不快なのである。
わたしの不快量をy、人死の数をx、作為の不快感をaとする。
転轍機を動かしてこの不幸の体系に介入した際、不快量はy = 1 + aとなる。
事態を傍観して複数名が轢死した場合は人死に増加に伴う不幸量の増大は逓減するから、y = √x としよう。グラフにすると以下のようになる。
転轍機を切り替えたくなるには、1 + a > √x となるようなx、つまり人死にが出ねばならない。5名ではなく核ボタンがトロッコの先にあれば、さすがに決断するのではなかろうか。