何処にもない国

 見せたいものを見せるのは野暮である。
 『コクリコ坂から』の冒頭でメルは炊飯をすべくコンロを点火する。この一連の芝居の一々が、押井守のガンアクションのように、カットを割って叙述される。
 マッチを取り出す。
 マッチを点火する。
 コンロを点火する。
 マッチを消す。
 これらがすべて別カットである。
 語り手の内心を翻案すれば「鋳物コンロ! マッチ点火! 三丁目夕日ガジェット!」となろう。これは下品である。しかし罪がない。
 ガジェットが特権化した瞬間、事物は邪念になる。
 『この世界の片隅に』の冒頭に出てくるクリスマスツリーにも、「戦前にも! クリスマスが!」というこの手の邪念が漏れ聞こえてくるのだが、こちらは話が話だけに不穏になる。
 ショーウィンドーのクリスマスツリーにカットを割って戦前を相対化する意図は悲酸の増幅にある。クリスマスを享受するほど文明化していたわれわれに戦術核を撃ちこむとは何事かという憤激である。しかしこの理屈だと野蛮人なら焼き殺してもかまわないとなりかねない。

 熊切の『夏の終わり』はさながら昭和ガジェット地獄だ。冒頭で中野大和町の軒並みが映る。わたしはあそこの商店街を偶に散歩するが、それはともかく、「板塀! 砂利道! 琺瑯看板!」であり、ダメ押しでオート三輪が画面を横切る。屋内になれば闖入してきた満島ひかりが「コロッケたべる~?」とやる。コロッケは紙袋から取り出され白い湯気を放つ。サクサクであり、これはグルメ番組かと錯視させられる。
 すべては不自然である。しかし厄介なことにこの不自然には確証がないのだ。当時を知らぬわたしには判定しようがない。案外、知る人が見たら自然に映るかもしれない。だが、当時を生きてもなお判別ができないとしたら。
 『孤狼の血』や森田版『阿修羅のごとく』であるならば、わたしにも判別はできるはずだ。結論としては、あの昭和に見えない。「全部書類手書き! たばこ自販機! 昭和!」という相変わらずの印象で、不自然だと判定を下せる。
 ところが、知ってるからこそ分からないという逆説もある。これは作られたものという予断が認知を歪めている。あるいは、回顧というフィルタリングによって記憶が汚染され再構築されている。過去の体験があてにならないのである。
 当時の人間が当時の風俗を叙述する。これすらもはや信用ならない。
 ゴジラ’86や『俺たちの勲章』がもたらすあの途方もない郷愁と『コクリコ』の鋳物コンロへの嘲りにどれほど差があるというのか。すべてはルックと美術の情報量の差にすぎないのだろうか。

 過去の人間がその更に過去を再構成した映画をみる。そこから被る認知の眩暈がすきだ。
 『仁義なき戦い』では70年代初頭の人間が敗戦直後の美術を作っている。どちらの時代も知らぬゆえに70年代から再構成された敗戦直後の信憑性は全く不明である。ただ、経験からこれは不自然だろうなとなんとなくわかる。
 『代理戦争』になると70年代初頭から60年代の初頭を再構成する絶妙な距離感となり、居心地の悪さは最高になる。
 五社の『薄化粧』は80年代半から50年代を再構成する。80年代ならば知っているからわかる。この50年代は50年代に見えない。むしろ80年代に近い。こうして、50年代と措定された80年代という何処にもない国がうまれる。それは、小津映画の倒錯のように、何処にもないゆえに永遠に古びない国である。当時の風俗を知らなくとも、小津映画だけは判別することができる。これはリアルタイムで見ても不自然であっただろう。その構築感はむしろSFに近いからだ。

 『夏の終わり』は潜水艦映画のようだ。遠景は田舎の場面しか出てこない。冒頭の大和町の軒並みも望遠で叙述され、ロケになるたびに時代バレへの怯えが伝わってきて受け手を圧迫する。潜水艦映画のような、試される人間心理の叙述がそこに生じてしまうのだ。