『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』

 体育会系を媒体にして文系賛歌の調べを奏するのは常套としても、クリストファー・マッカリーの文系世界ともなると、その媒介の意匠に捻りが出てくる。
 アステアのミュージカルのように文系に身をやつす体育会系が爆発するだけでは、『ユージュアル・サスペクツ』があそこまで文系臭くはならなかっただろう。カイザーが爆発する寸前にケヴィン・スペイシーが貶められ文系の悲哀を訴えてくる。これが転調して、あの不幸な文系は何処にもいなかったオチがやってきて、事が疑似的な文系救済となるのだ。その煽りで、ピート・ポスルスウェイトの文系男コバヤシさんが幻だったのかという落胆もくるのだが、これが更に土壇場でひっくり返り、文系賛歌はどこまでもきもちよくなる。
 『ワルキューレ』の様相も複雑である。トムクルのナルシシズムへの反感が抑えられないのだ。現場を守る名もなき兵士たちや文弱ゲッベルスが体育会系トムクルの叛乱に際して意気地を見せる話となってしまい、作品本来の趣意が転倒してしまう。
 『フォールアウト』は『ワルキューレ』の呈した諸問題に挑戦している。
 新海誠もかくやのナルシシズム映画である。ところが、元妻ミシェル・モナハンの視点が導入され、トムクルの客体化・遠景化が行われることで、ナルシシズムから話が救われる。カイザー・ソゼのようにミシェルは自らの内に体育会系の属性を発見することで救済されている。それがトムクルの感化で行われたのだ。
 そもそもどうしてこのふたりは別れたのか。ふたりの離縁は体育会系と文系の断絶をアイロニカルに叙述していたのだが、ミシェルの視点は社会時評の言説を援用して属性の齟齬に新たな解釈を試みる。互いに孤立しているのにひとりではない。属性に調和した場所にいる限りひとはひとりではない。

 ミシェル夫のウェス・ベントリーがいい。初出は軽薄な一般人という風貌で、進化したミシェルはなぜこの男を新たな夫としたのか、よくわからない。しかし謎は解ける。トムクルの正体のこともミシェルとの過去のことも、夫はすべて感知したうえで微笑している。俺たちのコバヤシ弁護士である。