『男はつらいよ 望郷篇』

 『ちはやふる結び』で叫び声を上げた場面があった。千早が新に告られる。千早が好きで好きでたまらない太一はそれを知って突如退部。太一の気持ちを全く察しない千早は退部の理由がわからず、なぜやめるのかと線路脇で太一を問い詰める。わたしは激昂した。何たる愚問か。手前が美人だからにきまっておるだらう。

 マドンナの好意を寅が勝手に誤解した恒例の体裁であれば、責任はあくまで寅にあるのであって、ここまでマドンナが残虐に見えることはなかったはずだ。ところが本作は寅の責任を否定する。誤解しても仕方がない言動をマドンナが行ったと明確に規定する。これには一連の事態を観察する源公の存在が大きい。初期源公だから知性があるのだ。
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 寅は豆腐屋の娘、長山藍子に惚れる。寅は住み込みで日々豆腐を揚げはじめる。そこに工員風の男、井川比佐志が登場する。頻繁に豆腐屋に足を運ぶ彼を何たる豆腐好きかと寅はにこやかに評し、嗚呼またルーティンが始まったとわたしたちの胃を締め上げる。例によって藍子と井川の仲を寅は全く察しない。ただ、このふたりには容易に事が進まない事情がある。藍子が井川と結婚して家を出るのを藍子母の杉山とく子が許さない。豆腐屋を一人でやっていく自信がない。そこで寅を説き伏せる段取りとなる。いつまでもいてくれと。このセリフを藍子と自分の結婚だと寅は解す。
 この場面だけでは語り手の真意がどこにあるかわからない。これは誤解しても自然な状況とされているのか。誤解する方が悪いつもりで叙述されているのか。というよりも、恒例の儀式だけにまた独りよがりに誤解したなという感慨へと誘導されがちである。ところが一連の場面は源公も目撃している。彼は真顔で兄貴おめでとうと祝福して、語り手の意図を明瞭にするのである。誤解しても仕方がないのである。
 語り手のマドンナへの辛辣さはさくら宅を訪ねてきた藍子の場面で絶頂に達する。
 藍子と井川の婚約を知った寅は豆腐屋の後事を源公に任せ出奔する。藍子は寅の好意をまるで察しない。後日、さくら宅を訪れた藍子は、なぜ彼は出奔したのか疑問をぶちまける。それに際したさくらの、何か痛ましいものを目撃したといういたたまれない顔。出奔の際、寅の泣き笑いまみれの自嘲をさくらは聞いていた。
 「やっぱりダメだった」
 寅は足を洗おうと試みていた。堅気になりきれなかったと告白することで、またしても恋敗れたと彼はほのめかすことができたのだが、このダブルミーニングは経済問題と恋愛を無残に結合させる。経済問題ゆえの悲恋がどれほど男にストレスを与えるのか。寅の顛末を知ったさくらと源公の悲痛な反応が、そのストレスに言及するのである。

 アラームコールという不可解な利他的行動がある。動物の群れに捕食者が接近する。すると群れの一個体が警戒の声を発する。群れはいち早く捕食者から逃れうるが、警戒音を発した個体は真っ先に位置がばれて狙われる。これは不可解である。真っ先に狙われるから、アラームコールを発する性質は伝わらないはずである。血縁選択に基づく説明によれば、警戒音によって自分は生き残れないものの、自分の性質の幾ばくかを共有する血縁の個体は捕食を免れる確率が高まるはずだ。
 望郷篇で藍子と井川をつがいにした寅の利他的行為は意図せざる結果である。後年になると、これが意識的な営みになる。
 『幸福の青い鳥』の寅は否定しながらも志穂美悦子が好きで好きでたならなくなる。悦子がだからこれはしかたがない。彼女には史実通りに長渕という男がいる。寅の前でふたりは喧嘩別れをしてしまう。走り去る長渕。残された悦子に寅はやせ我慢を敢行する。
 「追っかけていきな」
ラスト。芦ノ湖で寅は観光客の有森也実に鳥の笛を売り込んでいる。曰く「吹くと幸せになる青い鳥である」と。だから自分は幸せだと。
「こんなきれいなお姉ちゃんがそばに来てくれた。幸せだ」
 そこでは利他的行為が青い鳥と解されている。青い鳥は彼自身だったのだ。