ウンベルト・エーコ 『フーコーの振り子』

 陰謀説を肯定する態度は揶揄の対象になる。かといって、陰謀論者を揶揄して蒙を啓くだけでは一般文芸の水準を満たせない。陰謀に揶揄以外の態度を示しても啓蒙が損なわれない、あるいはかえって啓蒙に至ってしまう事態を案出せねばならない。

フーコーの振り子 上 (文春文庫) カゾボンはミラノの出版社に勤め、陰謀論者を食い物にする自費出版業に関わっている。食い物にするのだからカゾボンと同僚たちにとって陰謀説は揶揄の対象であり、地の分でも陰謀論者は喜劇調で造形されている。受け手は陰謀論者を揶揄するように誘導される。ところが、受け手には反対の力も働いている。陰謀論者は食い物にされている。そこに同情や共感の余地が生じる。陰謀説に対する語り手のスタンスが揶揄寄りながらも何となくぼかされるのである。
 カゾボンと同僚たちはやがて戯れに陰謀の仮構をはじめる。すると現実が彼らの陰謀を反映し出して世界改変SFのような趣が出てくる。オチは作中でも言及されるようにタクシードライバーとジョン・ヒンクリーであり、カゾボンらのお遊びを知った陰謀論者がそれを本気にして、事を起こしていたのだった。
 カゾボンは陰謀を信じた人々の計画に巻き込まれ報復を受けたのだったが、陰謀説はあくまで非啓蒙物として扱われている。この本筋とは別にカゾボンが恋人とブラジルへ渡る回想のサブプロットがある。
 恋人のアンパーロはマルキストである。南米土着の神秘のドロドロを民衆の阿片だと嘲る。そんな彼女が土着宗教の儀式を見学すると体の震えを止められなくなる。意思に反して太鼓のリズムに体が誘われる。マルキストの意地にかけて身を任せるわけにはいかない。しかし最後は屈して強烈なトランス状態に至るのだった。
 儀式のあと「恥ずかしい」と彼女は落ち込む。
 「信じてなんかいない。自分でもそうしようと思ったんじゃない。でもどうしようもなかったの」

自民党戦国史〈上〉 (ちくま文庫) 無宗教の人間が著者の詳細を知らずに『自民党戦国史』を開くと、まずギョッとしてしまう。戦国史は伊藤昌哉による大福戦争の記録である。彼は大平側近だ。慎重な大平は判断に迷うと伊藤を呼び出し助言を乞う。伊藤は諄々と諭す。大平は自信を取り戻して元気になる。本書はこのルーティンに終始するのだが、伊藤の語彙が独特なのだ。
 伊藤は金光教の信者である。大平もそれを承知していて、カトリックのくせに「神さまの話をしてくれないか」といったりする。大平夫人も某女性教祖と懇意である。彼女は某教祖にこんなことを言われる。
 「大平は純粋に田中のことを思っている、ところが田中にはその思いが通じない」
 夫人は心配になって伊藤に相談する。
 無宗派にはキモい話である。ただ、読み進めるうちに簡単には割り切れなくなる。
 伊藤は定期的に荒川の教会に赴き”先生”に助言を乞う。先生の話はそれなりに時局に沿っていて、時に伊藤を感心させる。先生も時事を研究している。信者が納得できる話をしないと求心力を失うのである。これは伊藤にしても同じことで、伊藤の宣託に大平が納得せねば伊藤は重用されるはずがない。実際、大平は伊藤のお告げにピンとこないこともある。先生にしろ伊藤にしろ政局の知識とセンスがなければならないのである。
 無宗派から見れば、センスがあるのに宗教の体裁をとる必要性が分からない。神ががったらむしろ胡散臭くなりはしないか。
 大平が直面しているのは明快な答えなど前もって望めない政争の修羅場である。たとえば、福田が禅譲する気があるのかどうか、これがよくわからない。
 大平は無意識にせよ腹の内は決まっているのである。ただ答えがわからない以上、確信がもてない。確信がないために腹の内という場が成立しない。伊藤は大平当人にすら曖昧な腹の内を探り当てて抽出して言語化する。伊藤や大平に対して、宗教はすでに決定された選択肢に確信を付与するための儀礼として作用している。これを嘲笑できるとしたら、それは彼が修羅場にいない証左ではないか。そう思わされてしまう。

 『フーコー』の唯物論者アンパーロが土俗宗教に凌辱された件で思い出したことがある。『二百三高地』のあおい輝彦である。
 輝彦はロシア文学青年である。召集前、たとえ戦場で相見えようとも敬露精神は失うまいと誓った彼は、戦火の洗礼を実際に被るとウヌレ露助めと鬼神化。文学は何の役にも立たなかったのだが、ここで文学青年を信仰のない近代人の記号と解釈すると別の意味合いが出てくる。拠り所なき人間を修羅場に放り込むとどうなるか。その実験を『二百三高地』は行っているのであり、その結果は悲酸きわまりない。
 輝彦と並んでこの実験の生贄に捧げられたのが仲代達矢である。
 『二百三高地』は登場する明治人の宗教的背景には言及しない。したがって、修羅場に耐えた三船、丹波、森繁らは皆サイコパスに見える。
 そんなサイコな大人たちの中にあって仲代のみが人間なのである。
 作中の仲代は終始みっともなく描かれる。
 大人の貫録を装おうと誰よりも試みながら、修羅場に直面してしまうと直ちに崩落する。息子戦死の報に際しては体の震えが止まらない。督戦に来た丹波が参謀の伊地知の無能を責めると、伊地知の上官である仲代は丹波けん責にヒッと反応。帰京して宮中正殿で復命書を読み上げる件になると、自責が爆発してしまう。衆目の中、仲代は泣き崩れてしまうのである。
 大人ならそこは我慢をして、家に帰って人目のないところで泣くべきだ。ところが、ここに至って事はみっともない云々を超えてしまう。
 それは抗議の叫びなのだ。
 俺は貴様らみたいなサイコではない。人間なのだと。