藤純子がおもしろい。
追われ身の鶴田浩二は潜伏先で藤としけ込んでいる。その際、鶴田に向かって展開される藤の品の作り様がコミカルなほど過剰なのだ。
例によって鶴田のナルシシズムの反映である。
ところがこの後、鶴田が懲役へいくと、藤の媚は男のナルシシズムの産物とはいえなくなる。
藤は零落して廓に身を売り、そこで高倉健と出来る。藤はまたしてもひどい惚れっぷりで、高倉に媚態の限りを尽くす。それは鶴田のナルシシズムに抽出されたものではなく藤の個性であって、好意が生じてしまったら誰に対してもこうなってしまう類の人だと判明する。
藤が薄情に見えかねない状況ではある。しかし媚態を個性として見せるから打算の印象は薄くなる。また藤自身にも自覚があって、配偶相手の選択に際して自分はランダムになってしまうと告白する。曰く、自分でもどうにもならない。藤に悪意が向かないように配慮がされている。
そもそもこの状況下にあっては、選好性を持たない方が適応度が高いだろう。鶴田も高倉もオスとしての甲斐性に優劣がない。だとしたら手近な高倉とつがいになるのは自然ではないか。
しかし物語は自然を許すことができない。
鶴田が出所すると高倉とのオス間競争が勃発しそうになるが、鶴田が身を引くことで晴れて藤は高倉とつがえることになる。
だが藤は二人を棄てて出奔する。
叙述されているのは歌舞伎の『野晒悟助』のような構図である。
『野晒悟助』は基本的に喜劇調の話で、悟助がやくざに絡まれた娘ふたりを救う。
娘らの惚れようは凄まじく、媚の尽くし様がコメディになる。
ふたりは熱狂的に求婚してくるが、性欲のない悟助は気が乗らず、早い者勝ちとして最初に訪れてきた娘とつがうこだわりのなさである。
選好性の欠落を自然として把握するのなら、悟助の行動は理にかなうはずである。ところが 物語はこの選好性のなさを喜劇として活用している。自然を許容できないのである。
後半、偶然やランダムではなく何らかの必然を求めて、物語は奇妙な捩じりを呈してしまう。
本作も恋愛における出会いの遭遇性を許さない。
身を引いた鶴田は養生先の吉良港で芸者を呼ぶ。
出てくるのが藤なのである。偶然ではなく宿命なのだ。
以降、藤の周りに死体の山が積み上がる女難映画となる。
高倉は抗争で落命する。
鶴田も修羅場に出向こうとするが、ここで人間の不条理な在り様が爆発する。
藤が引きとめにかかる。文字通りくらいついて離さない。
自然の襲来である
高倉が脱落した今、そのまま藤とつがいになればいいのである。それが自然である。ところが鶴田は追いすがる自然に対し反逆の叫び声をあげる。藤を拒絶し、抗議の叫び声をあげる。自然の分際で人間様を翻弄するとは何事かと。
ある意味で人間賛歌である。必然という現象を知覚できる動物は人間をおいて他にない。それを誉れとするのである。
それはルメットの『評決』のような恋愛の限界状況といっていい。
ポール・ニューマンはシャーロット・ランプリングの背信に遭う。
反省したランプリングはよりを戻そうとニューマンの事務所に電話をかける。
ニューマンは鳴り続ける電話を取らない。
取ろうと取るまいと同じなのだ。
よりを戻そうと試みると、今のランプリングを誘引しつつあるオスの気概が減じてしまう。
自然選択のバグである。
もし、あそこで鶴田が何もかも投げ出して藤とつがいになって自然に屈したら。
『狂い咲きサンダーロード』の健がその回答になるだろう。
暴走族、魔墓呂死リーダー健は恋人のために足を洗う。
ところが女は健を棄ててしまう。
曰く、わたしがいるとあのひとはダメになる。
夢を捨てた男から、メスを誘引する甲斐性までも失われてしまったのだった。
条件が同じなら人間の誉れを追求する以外に手立てがない。
特攻隊長の仁は魔墓呂死に残り抗争を繰り返す。
すべてを絶滅させた彼に訪れるのは安らぎだ。人であることを全うできたのである。
ラスト、もうブレーキを踏み掛けることもできない不具の体を載せて、仁のバイクが疾走している。
彼はどこへ向かおうとしているのか。
泉谷しげる「翼なき野郎ども」がエンディングでこう答える。
とびきりの女に会いに行こう。