小説『クレオパトラとロケット』

登場人物

  • 鎌倉仙太郎:男爵、漁色家
  • 前川侯爵:剣術道場誠心館主宰
  • リュシス:鎌倉の愛童
  • 佐竹弘道:黒岩剣術道場助教
  • ユキ:西銀座リベルテのメイド

1

 内藤新宿の前川侯爵邸で催された園遊会は、美剣士某の噂で華やいだ。東都剣術界の雄、黒岩道場に犯罪的美貌の天才青年剣士が降臨したのである。男爵鎌倉仙太郎も美剣士の話題に大いにのぼせ上がり、日本庭園に通じる林道を歩きながら前川侯爵を相手に気炎を上げ続け、候の機嫌を損ねた。前川侯爵の主宰する誠心館道場はかねてから黒岩道場と覇を競い合ってきたのだった。
 鎌倉仙太郎は前川邸の日本庭園を訪れるのは初めてだった。林道が鬱蒼としてくると、欅の樹間から停車場脇に聳え立つ通信塔が望見された。巨大なる混凝土の塔は黒々とした陰毛のような木立に飾られながら陽光に照らされ、林のむせ返るような臭いがその淫靡を際立たせた。鎌倉は嫌悪とも悦びともつかぬ叫びをあげた。
 「何て猥雑なんだ!」
 某剣士の話題で苛立ち、しかも屋敷では天井画からファサードの造作に至るまで散々鎌倉にケチをつけられていた侯爵である。ついに激昂した。
 「だったら君、あれを切り倒せと言うのか!」
 鎌倉は思わず両手を股間に伸ばして身震いした。
 「何てことを!」

2

 神の恩寵である。薄暗がりの道場を紺一重の群れが縦横している。その中にあって、白磁のような肌が神々の子の様に汗にまみれながら燦然と光り輝いている。袴が旋回すると、たちまち花の香りが放たれ、目に染みる様なチオールの臭気が圧される。道場はたちまち官能的雰囲気に包まれた。
 漁色家、鎌倉仙太郎は震え慄いた。彼は渋る前川侯爵を拉し、美剣士目当てに出稽古と称して黒岩道場へ赴いたのだった。
 黒岩道場助教、佐竹弘道がやって来た。
「どうですかアレは? 男爵様の御眼鏡には叶いましたかな」
 鎌倉は内心はウキウキしつつも大儀そうな様子を取り繕った。
「ウム。中々だが腕はどうかな?」
 掛稽古が始まった。鎌倉は性欲を一端脇へ置き美剣士の腕前を値踏みした。打ちは厳しい。しかし打突の冴えにムラがある。美剣士に目を向けたまま彼は唸った。
 「あれは包茎だな。かなりの真性だ」
 鎌倉の評に前川侯爵はやや混乱の面持ちを見せた。
 「それは勿体ない。いや、この場合、逆か」
 しかし、この惑乱の隙を狙われたのか、或る悪魔的着想が前川侯爵を襲ったようだった。候は鎌倉に持ちかけたのだった。
 「君、ひとつあの皮を散らしてみないか」
 「気でも狂ったか」
 「君の皮切りの腕はまだ落ちてはなかろう?」
 「それはそうだが、道理に悖る」
 「なあに、斬られて相手も満足さ」
 鎌倉、恬淡を装いつつ心は乱れた。皮を散らされ、苦痛に耐える美剣士の震える姿が鼻息を自然と荒くしてしまう。しかし道場間の確執に利用されたとあっては、漁色家の名が廃る。この腕は、斯様な卑劣極まる淫行に利用される程、堕ちてはいないのだ。
 逡巡する鎌倉の前で、美剣士と愛童リュシスの地稽古が始まろうとしていた。威力偵察のつもりで、鎌倉は自らの愛童を美剣士に差し向けてみたのだった。
 ふたりは微動だにしない。しかし愛童リュシスの美しい喉に微細な震えの気配が走ると、魔性の美剣士はその未熟な予備動作を見逃さなかった。床板が鳴り、木剣がリュシスの股間を一閃した。袴が鮮血に染まり、滴り落ちる紅い滴が飴色の床板に一種絶望的な艶やかさを添えた。
 うずくまる愛童の向こうに、美剣士が彫像のような酷薄な色合いを帯びて屹立している。散らすつもりが散らされてしまった。

3

 かくて如何なる無理にも正義は与えられたのであった。花を散らされたリュシス。その疼痛と恥辱に苛まれる凄艶の姿。エロスが怨恨の香油を振りまきながら鎌倉を襲い、剛勇の気を吹き込み、彼の道学者的アンニュイを払拭したのだった。
 『かようなる美は人類に耐えかねる。成敗してくれる』
 邪剣に堕ちた鎌倉は加虐の悦びに慄きながら立ち上がり、武者溜から道場へ足を踏み入れ美剣士に切っ先を向けた。間境を踏まずともすでに勝敗は明らかである。包茎者の青硬い打ち込みを嘲弄するようにいなしつつ、鎌倉は老練な太刀筋で以て青年の四肢に探りを入れた。
 鎌倉の木太刀は実に繊細な動きをすることができた。切っ先の淫猥なる触覚の調べが道着の上から美剣士を貫く。かつ美剣士の筋肉の震えが太刀を伝って鎌倉に感知せらる。
 前立腺の震えが伝わってきた。
 『これは物になる』
 早々に花を散らすのはあまりにも無体。精々ゆるりと仕込んでやらう。
 邪剣の余光が温容な顔貌に微細な痙攣を加える。鎌倉は一種冷艶な威容を現じながら、好奇の人々を背に道場を去った。
 鎌倉は知らなかった。自分が密かに恐れたことを。美剣士の花を散らすことで飛翔する官能に、自分がもはや堪えられないのではないか。……

4

 鎌倉仙太郎が愛童リュシスの凶刃に斃れたのは、白昼、神楽坂鶴福斜向かいの路上であった。今や消え入らんとしている鎌倉は、散々に弄んできた、うなじにかかる愛童の美しい髪が返り血を浴びて輝いている様を眺めながら、嫉妬に駆られた愛童に刺される男の誉れに震え上がり、歓喜と光明に包まれた。
 『美しい』
 後日、大森病院に収容された鎌倉を前川侯爵が見舞った。ベッドの上の鎌倉は満腔の歓喜に充たされながら、未だ続く浄福に顔を緩ませていた。
 侯爵は呆れながら脇の椅子に座った。
 「どうして刺された? 躱せただろう」
 「刺されたかったのさ。あやつも俺が躱さないとをわかっていたさ。まあしかし、今回はちと煽りすぎたようだわい、呵々」
 「お目出度い奴だ」
 完全に出会うと恣意を奪われる。最早刺される以外に術はない。あのとき鎌倉はこう悟った。このまま刺されると、さぞかし気持ちのいいことだろう。鎌倉は必然の美に屈したのであった。

5

 傷の癒えた鎌倉仙太郎は色々な意味で愛童に稽古をつけてやろうと早速に神保町の誠心館に足を運んだ。門前に立った鎌倉は、道場から漏れ出る気合の声々の中に愛童の黄色いそれを聞き分け鼻腔を膨張させたが、すぐに拉げた。その気合いに不穏な艶がある。更に愛童の気合を凌辱するように、聞き覚えのある発声が重なる。
 堪らず道場に闖入した鎌倉を迎えたのは、地上ならぬ光景であった
 愛童があの美剣士と地稽古を試みている。美剣士の足さばきが愛童を追い詰める。その湿った運歩と太刀筋を受ける愛童の躰の嬌態の影を帯びたたわみに、百戦錬磨の漁色家たる鎌倉は敗北を悟った。すでに出来ておるのだ。
 ふたりの木太刀が互いに絡みうちに地上の美が脱俗して上昇する。天上に達したそれは鎌倉に蔑視を送り、美を前にした男の惨めさを煽り立てる。
 愛童の美しい髪が、午睡中に散々弄んだあの金色の髪が、美剣士の魔剣に好いように蹂躙され乱されている。
 鎌倉はたちまち容儀を崩し、脱兎したのだった。
 その晩、前川侯爵を拉した鎌倉は銀座松山で徹宵の飲を試みるも、二升に近づいたところで店から逐われた。
 侯爵と別れた鎌倉は母胎回帰を嗜みたくなり西銀座リベルテに乗り込んでメイド、ユキを拉し、築地二丁目の待合に連れ込むと、哀韻嫋々とユキのエプロンに顔をうずめた。
 いつまでも、そのむせ返るような、蠱惑的な芳香の中でまどろむ鎌倉に、ユキは、自然の訓致した性質に身を委ねるままに、慰めをいった。
 「あらあら、くるしんだのね」
(了)