凡庸なるストレス

 『おしん』青春編はつらい。全編つらいのだが青春編のつらさは性質が異なる。おしんの成功に受け手の境遇が浮き彫りにされてつらくなってしまう。
 髪結いの下働きを始めたおしんを師匠が贔屓する。おしんの才能を見抜きスピード出世させる。日本髪が廃れようとする時代状況だが、才能あるおしんは洋髪にも易々と適応して顧客の山を築いてしまう。これを先輩らが嫉視するのである。
 才能がなく時代に取り残される人々に橋田壽賀子は冷たい。青春編では彼女らはヒール扱いにとどまりその境遇になんの解決もなく、おしんが次なる階梯へ進む踏み台となって終わる。師匠やおしんの視点に同化する橋田は凡人に配慮せよと示唆するばかりである。才能を与えられたならば凡人らに如何に配慮するか。この人たちの叛乱にどう向き合うべきか。
 ところが、多くの受け手にとっては超人である師匠やおしんよりも嫉視を抱く凡人たちのほうが近しい存在である。配慮よりも自らの凡庸の属性にどう立ち向かえば心安らかになれるか。それを教えてほしい。

 『アリー / スター誕生』はショーファーたちの映画でもある。ブラッドリー・クーパーにお抱えがいるのはいいとしても、ガガの父親までも職業運転手であり意図するところは露骨である。バンドマンの末路は雲助というアレで、シンガー志望のガガ父は夢破れているのだ。
 クーパーはこうした凡人たちへの配慮を忘れない。それを念入りに描くことでクーパーの造形説明が本筋へ組み込まれる。
 冒頭でガガが負傷する。クーパーは24時間営業スーパーに赴き冷凍食品を購入して保冷剤の代わりにする。ついでにポテチを購入して、深夜までクーパーの求愛活動に付き合わされるショーファーへの労いとする。
 けっきょく朝帰りとなりガガを送り届けると、ガガ宅に高級車が列をなしている。ガガ実家は運転手のたまり場であり、夢破れた凡人たちの巣窟である。才能あっても夢破れたとガガ父は朗らかに自嘲する。クーパーの身内にしてもマネージャ格で兄貴のサム・エリオットは元ワナビ設定である。
 ここまで捨石となった人々をしつこく周縁に配置する訳はガガとクーパーの逆転劇になってようやく判明する。
 凡人を踏み台にしてきたクーパーはガガの才能を見いだすや、自分も踏み台の一人であったと知る。彼はそれを受容しようとするが体がいうことを聞かず意志に反してガガの出世を妨害してしまう。クーパーはこれ以上ガガを困らせないために自死を選ぶ。凡庸であることでどれだけストレスに曝されるのか明らかにされ、それでもなお正気でいる人々の勇気が讃えられるのである。

 四月大歌舞伎でかかった近松半二の『新版歌祭文』野崎村も、凡庸のストレスとそれに耐える勇気に言及している。
 久松は油屋の丁稚である。お染は油屋の娘である。ふたりは恋仲にあるが金銭の不始末で久松は店を追われ実家に帰る。
 野崎村に戻った久松を待つのは幼馴染のお光である。
 お光は久松に好意があり即婚礼となるが、そこに闖入してくるのが久松を追ってきたお染である。
 久松は選べない。いや、すでに勝敗は決している。セレブであるお染の方が百姓娘のお光よりも優先されるのは自然の掟である。しかもお染は久松は先占している。
 ところが金銭の不始末で彼女の先占権が希薄化していて、お染とお光の力関係がどうにか均衡を見ている。三人ともどうしたらわからず混乱を極める。
 ここでバランスを崩すのがお染の母、お常の投入であり金銭の不始末を彼女が解決する。パワーバランスの変化を悟ったお光は身を引く。大坂に戻らんとする二人を見送る際もお光は気丈であり、微笑すら湛えている。しかし、ふたりが舞台から消えると本音が出てしまう。彼女はその場に泣き崩れてしまう。
 正気でいられるはずはなかった。凡庸に耐えられるはずがないのだ。お光もサム・エリオットもショーファーたちもみな静かに壊れていたのである。