小説『星の丘を君と歩く』

登場人物

 

  • 鎌倉仙太郎:男爵。退役恒星間戦略兵器。漁色家
  • 前川侯爵:包茎
  • ミドリ:前川侯爵前令夫人
  • ユカリ:前川侯爵令嬢
  • 氷室馨:黒岩剣術道場の天才美剣士
  • 漆原葉月:新劇女優。帝国女優学校校長
  • 伊原:都新聞記者
  • 田無博士:帝大教授。肛門の世界的権威
  • 曽根崎二等兵:仙太郎の従卒
  • ユキ:西銀座カフェ「リベルテ」のメイド
  • ブロンソン大佐:戦略極地戦基幹連隊「ブロンソンズ」連隊長
  • ケネディ少佐:「ブロンソンズ」作戦幕僚
  • ボーグナイン曹長:「ブロンソンズ」最先任上級曹長

1

 女子学習院に突如同性愛の嵐が吹き荒れた。前川侯爵令嬢ユカリも愛の嵐に巻き込まれ、女子某と出奔するに至ったのだった。
 事件のあらましを聞いた男爵鎌倉仙太郎は、巻き込まれてはかなわぬと中野坂上のユキ宅に逐電した。しかし、早々と寂しがり屋の性がもたげ某宮家の慈善音楽会に顔を出したのが運の尽きで、同家ホオルで前川侯爵と出くわし早速泣きつかれた。
 前川がユカリの運転手と書生を聴取したところ、相手は丈高のすごい美人で、着用せる制服から判断するに帝国女優学校の生徒だという。
 「君はあそこの校長と旧知だろう、何とかして呉れ」
 帰りの車内で前川に懇願された鎌倉は苦渋の様子を取り繕った。帝国女優学校校長、漆原葉月とは知らぬ仲でもないが、淫乱で悪名高いあの女の事である。何を要求されるかわかったものではない。しかし哀しいかな、漁色家の本性は禁じ得ず、愛童を奪われた先日の一件の反動も手伝って、女学校やら女優学校といった語に鼻息が荒くもなってくる。かようなる美は吾輩が懲せねばならぬと意味不明瞭のやる気を引き起こしてしまった。

2

 校長室に鎌倉を迎え入れると、漆原葉月は長椅子に横たわり凄艶としか言いようのない品を作って見せた。
 「聞いたわ愛童の一件。ようやく正道に立ち返りわたしを抱きに来たのね」
 開き直った年増の頽廃に鎌倉はうんざりしつつ事件の概要を語り、思い当たる生徒はいないか訊ねた。当ての外れた漆原葉月は不機嫌になった。
 「わたしのかわいい娘たちを貴方のような外道男爵に売りはしないわ。諦めてわたしを抱きなさい」
 「年増は嫌だ」
 「こんな美しい大女優を抱けるのよ。この玉無し」
 「この前、切符を100枚も引き受けただらう。切符を買うかわたしを抱くかお決めって脅迫までして。いやまて、ちゃんと自分の容色を自覚しているな」
 「ばれたら仕方がない。さっさとお抱き」
 漆原葉月は信じがたい跳躍で鎌倉に襲いかかり、狂熱的なキスを浴びせてきた。椅子の革の匂いと香水の入り混じった咲狂うような臭気に嘔吐の衝動を覚えつつ、鎌倉は年増の性欲の衰えを待つしかなかった。幸いにして今回は接吻だけで葉月は鎮火したようだったが、用を終えた女は元来の酷薄さをたちまち取り戻した。
 「丈高の美少女? 宅にはおりませんことよ男爵様。そういうの、わたし好みじゃないの、ほほほ」と哄笑した。

3

 鎌倉、憤激して校門を出ると、今度は都新聞の伊原と出くわし、早速社に連れ込まれ、記者連環視のなか応接間でウヰスキーを供された。もうユカリの出奔がつかまれたかと危惧されたが、そうではなく愛童の一件を書き立てる腹らしい。
 「君ら僕を酔わして吐かせようたって、そうはいかんぞ」と笑ったそばから鎌倉はグイグイとウヰスキーを呷った。露悪趣味の彼は言いたくて言いたくて堪らなかったのである。嬉々として潤色を加えて事細かに醜態を述べ、記者連を大いに沸かせていたところ、記者の一人が血相を変えて飛び込んできた。下の階にあるダンス研究所から丈高のすごい美少女が出てきた。帝国女優学校の制服を着ていたと言うのである。
 その美少女が処女か処女でないか、たちまち部内で議論が勃発した。忘れ去られたのをいいことに鎌倉は脱した。

4

 日比谷の社屋からずっと追ってきたのである。例の美少女が新橋のメイド街に入るころになると、さすがに退屈してきて漁色家の本能が要らぬ空想で鎌倉を掻き立ててきた。丈高の美少女の中性的姿態が女装子というタームで以て彼を淫逸に流し始めたのである。
 鎌倉はまたしても愛童の一件に埋没していった。我が童を奪った美剣士、氷室馨の様な男が女装したら、あのような美女がたちまち爆誕することであろう。
 ところが、この空想には決して根拠がないわけではなかったのである。鎌倉は道々美少女の背中に違和感を覚えていたのだが、ここにおいてようやくその正体を知ったのだった。美少女の足取りは如何にも美少女の歩きを装ってはいるものの、子細に観察すれば道場で見た氷室馨のそれと同一であった。
 (あやつにそんな趣味が)
 衆道家の美青年が女装を嗜むとはどう解釈すればいいのか。鬼に金棒というべきか。混乱する鎌倉をよそに、女装せる氷室馨は仲通板から人気のない横町へ曲がり、柴折門のメイド家に入っていた。四半刻の後、女装の青年はメイド姿の少女を連れて出てきた。前川侯爵令嬢ユカリの変わり果てた姿だった。

5

 身体にぴったりとしたエプロンが春の陽に照り返っている。鎌倉はその純白に、かつて道場を威圧的な美しさで蹂躙した、懐かしいあの女の白無垢の稽古着を重ねていた。揺れ動く紺のスカートから放たれる甘い旋風が波紋のように広がり、すれちがう巷間の人々の顔を一様に緩ませた。
 ユカリの足取りは気高く健気な処女のそれであった。百戦錬磨の漁色家、鎌倉はたちまち見破ったのである、そうまだ処女なのだ。
 母譲りの険しい美貌が鎌倉を低回の情へ誘う。少女の美貌の矜りにかつて愛慕した女を鎌倉は見てしまったのだった。
ユカリの母、ミドリ。それは鎌倉にとって屈従と嬌羞塗れの邂逅であった。

6

 血汐に塗れた鎌倉は道場の床に身を横たえ、去り行こうとする酷薄な天使の蜃気楼の様な影を放依した眼で追っていた。
 非凡なる敗北。
 鎌倉仙太郎。16歳。夢見るほかに能のない童貞。
 道場に突如現れた美少女の剣は 禽獣の如く青年鎌倉を侵掠し、そのさまざまな部位を毀折したのであった。

 道場に入ってきた少女ミドリの横顔を鎌倉は生涯忘れることはなかった。それは自分が美しいと知っている顔であった。自らの美に怯えることはなく後ろめたさもなく当然のものとして享受し、美で地上を圧するのがむしろ義務であるとするような驕慢なる顔つき。少女の美貌は地上を蔑むほど彼女の足取りを偉大にしていた。
 童貞鎌倉は泣きべその体である。少女のみ前に進み出て木太刀を構えたものの、かようなる人類に到達の許される最大の美は童貞には手が余る。これはもう宿命の中に安らぎを覚える様なグロテスクに身を任せる他あるまいと床板を鳴らし突入すると、ミドリの歌謳するような太刀筋が功伐を開始した。
 打擲のひとつひとつが悲愴な行為の響きを轟かせ鎌倉を圧しひしぎ、彼の自我を切り刻み断末魔の点景へと圧縮した。
 事終わり、去りゆく少女は言い捨てた。
 「貴方、童貞ね」
 漁色家と成り果てた今となっても、耳底に残るその凛とした声に邪穢の身を震わせてしまい、ユカリと氷室馨の姿を人ごみの中に見失いそうになる懲りない鎌倉であった。

7

 新橋メイド街を出た二人が金春通りを北上して西銀座に近接するにつれて、鎌倉を実に嫌な予感が見舞い始めた。果たして、氷室馨と別れたユカリがその姿を消したのは、まことに灯台下暗し、鎌倉馴染のカフェ「リベルテ」。ユキの奉職先であった。
 まさかすべてはユキの陰謀ではないか。だとしたらなぜ?
 何も信じられなくなった鎌倉ではあったが、とりあえず入店し、幸か不幸かユキは不在であったので、早速ユカリを呼び出した見た。
 やってきたユカリは特に動揺の色を見せることなく鎌倉を一瞥するや「ご機嫌ようメイド狂いの男爵さま。愛童の件はご愁傷様ですわ」と蔑みの声をかけた。
 鎌倉は立腹。前置きなしにぶちまけた。
 「君の女、奴は生えてるぞ」
 ユカリはやはり動じない。
 「知らないわけないでしょう」
 「あやつは筋金入りの衆道で、俺の愛童を奪った外道である」
 少女の瞳に自信と驕りの色が浮かんだ。鎌倉の愛童を奪った男を今自分が奪いつつある。その歓びである。
 「情けない。いいわ、調教して女の味を覚えさせるまでよ」
 「衆道は手ごわいぞ」
 「望むところよ」
 漁色家の性がそうさせたというべきか、鎌倉は少女の意気に打たれてしまうとともに、そろそろ面倒にもなって来たので、このまま引き上げることにした。
 何れにせよ相手は衆道である。鎌倉が見るに、未だ処女を温存しているようだから、被害は肛姦の域を出ることはあるまい。したがって懐妊云々を気にすることはなく、クソ侯爵を憔悴させておくのもこれまた一興であると鎌倉は無邪気にリベルテを後にしたのだった。

8

 ひと月が経った。鎌倉は屋敷の道場で素振りに励んでいた。道場正面に据えられたテレビジョン受像機からは『カードキャプターさくら クリアカード編』の、永劫変わらぬかと思わせる声優丹下桜の蜜のように甘い声が響き、道場を震わせていた。自然、太刀筋が熱を帯びてきたところで、ユキの使いがやってきた。曰く、ユカリは痔疾に罹患し、ここ数日急激に悪化したと。
 ソドミーの誤算である。
 鎌倉は帝大の田無博士に秘密往診を依頼し、翌日、博士をともなって例のメイド屋を訪れた。
 ユカリの頬は涙でぬれていて、唇には生彩がなかった。輝きの失せたその瞳はただ放心して天井を眺めるばかりである。
 田無博士がユカリの患部を覗きにかかる。
 巨大な痔核が赤黒く充溢した鶏卵大の魔物体となり、どぎつい脈動をうねらせながら美事に脱肛している。
 博士の顔色が変わった。
 氏の肩越しにユカリの異様な患部を覗いた鎌倉は叫んだ。
 「博士、下がれ! こいつは罠だ」
 火柱が尻孔から噴流する。
 肛門に工作を弄されたのだ。氷室馨が、あの悪魔衆道家が指向性有機地雷をこの哀れな少女に種付していたのだった。それがいまや肛門もろとも爆発せんとしている。
 鎌倉が抜刀して患部に立ち向かおうとすると前川侯爵が立ち塞がった。すべては前川の監視下にあったのだ。

9

 鎌倉は剣尖を上げて間合いを詰め始める。
 「やはり貴様の仕業か前川。いや、これはミドリの企みであるな」
 「君の肛門にどでかい穴をあけるために馨の奴に種付けしておいたのさ。まさか君の愛童を襲った挙句に娘に仕込むとは思わなんだ」
 もはや狂気に駆られたらしい前川の威嚇の声は悲しいほどに楽しげで、絵に描いたような諦念を漂わせていた。鎌倉は憐憫を覚えた。
 「ミドリの奴は最初からユカリもろとも俺を吹き飛ばすつもりだったのさ。もう大概にしろ前川。これ以上苦しむことはない。いい加減、あんな女忘て仕舞え」
 「わかってるだらう。もう駄目なんだ。君だって同じじゃないか」
 「それもそうだな」
 二人が対峙する間もユカリの魔痔核は火を噴きながら膨張し、自らの一部を触手化させ獲物を探し始めた。鎌倉も前川も自意識を漏らさず、魔痔核に的を与えない。このまま放置すれば魔痔核は宿主を飲み込むことだろう。
 鎌倉は更に間合いを詰めた。
 「やばいことになってるぜ君の令嬢」
 「救いたければ俺を斃していけ。どのみちもはや手遅れだ」
 「いよいよ恥垢の毒が脳に回ったらしいな。仕方がない、その包皮、叩き斬ってくれる」
 「斬れるかな、我がタングステン鋼のごとき皮を」
 「斬れるさ」
 「よかろう。ならば殺し合おう」

10

 鎌倉の斬撃が振り下ろされ、前川の刀身が受け入れる。すべては静寂のうちに進行した。恒星間戦略兵器の自意識を介さない戦いの叙法には音がない。刀身が互いに邂逅を遂げた時、そこには光があるばかりである。
 前川の刀身が跳ね上がった。その太刀筋は鎌倉の喉元に向かっている。鎌倉の首筋は前川の切先とすれ違い、波濤のようにゆらめいた。鎌倉はそのまま、前川の刀身と別れた自らの刀身に裁量を与え、水平の弧を描かせるままにした。その白刃は円弧の運動の中で斬撃性を取り戻し、弧が閉じると同時に前川の股間を掠めその包皮を斬り飛ばした
 崩れる肉体の甘き痛みに耐えかね、前川の自意識は外部に漏出し魔痔核に格好の標的を与えた。魔塊は膨張し群羊を襲うがごとく躍動して、その身を延展させ行った。
 鎌倉は触手の尖端へ切先を投じた。
 轟音ともに四周の壁が飛び去った。血と肉片が降り注ぎ、環境媒質が波紋を描いて震えた。紅血の野卑な色彩が辺りを染め上げ、一帯は不明瞭な陰影へと変わった。
 濃紺の血だまりに立ち尽くした鎌倉は、不吉な連想観念と出会っていた。それは、物憂げな顔を血便に染めたかつての従卒、曽根崎二等兵の姿だった。

11

 戦場の音は何時しか止み、聞こえるものは野風にそよぐ草穂の響きだけだった。稼働できるマウンテン・トループは皆、すでに離脱したようだった。
 恒星間戦略兵器、鎌倉仙太郎と従卒の曽根崎二等兵は土手に沿って平潤な野路を歩いていた。彼らは酷く疲弊していて土手を登坂できそうもなかった。
 曽根崎二等兵が腹痛を訴えた。彼はその場でうずくまり激しく腹を痙攣させると拝跪の相好で紅い粘液を排出した。その勢いはとどまるところを知らず、やがて彼は自らの血便に浮かびゆっくりと漂い始めた。
 曽根崎二等兵は深宇宙赤痢の末期だった。
 鎌倉は血便を排水すべく、傍らに溝を掘り始めた。
 霞が晴れた。
 二人はまた歩き出した。土手の切れ目にたどり着くと、ようやく眺望が開けた。
 左右から波を打つような丘陵が、灌木に覆われた山麓まで続いている。白い小径のようなものが手前の丘を登り、それが頂に達すると斜面の向こうに消え、また、奥の丘を登っている。それは小径ではなく、力尽きたマウンテン・トループの縦隊だった。
 鎌倉と曽根崎二等兵は丘を登り始めた。
 曽根崎の挙動が止まった。彼は激しい腹痛の苦悶に身を震わせ再び拝跪した。曽根崎の肛門には破局の兆候がすでに表れている。今度はもう持たないだろう。
 深宇宙と結節した大腸が蠕動を開始した。吹き上がる血便の圧力に耐え切れず、曽根崎の肛門はついに自潰して閉塞した。
 鎌倉の目の前で曽根崎は膨張した。逆流した噴流の腔圧が、彼をもうすぐ破壊するはずだ。鎌倉には成す術がない。
 野辺に風が吹いた。
 鎌倉は曽根崎の残骸を後にしては歩き出した。
 風はやがてやみ、鎌倉は沈黙の中で独りになった。しかし、もう寂しいことはなく、また道に迷うこともなかった。彼は仲間たちの骸に縁どられた道をただ足取りに身を任せるままにたどり丘の向こうを目指した。
 隣にミドリがいる。いつから随伴していたのか定かではない。
 「ねえ、あの丘の向こうには、何があるの?」
 ミドリの問いに鎌倉は答える。
 「涙のない国があるそうだ」
 「その言い方はおかしいわ。君はそこに行ったはずよ」
 「よく覚えていない。何しろひどいありさまだった」
 「そう」
 沈黙が続いた。漆黒の髪に隠れて女の表情は窺えない。
 「わたし、待ちくたびれた。わたしはいつまでもここにはいられないの。でも、忘れないで。宇宙の果てでわたしは待ってる」
 鎌倉はミドリを見た。彼女は丘陵の彼方を見ていた。その視線は丘の向こうまでつづく白い骸を追っていた。鎌倉の記憶はここで途切れる。
 ミドリがここまで連れ戻してくれたと彼は考えている。
 しかし、鎌倉が地球に帰還すると、彼の幻覚ではないミドリは前川侯爵令夫人となっていた。やがてミドリは前川を棄て、全ての男のもとを去り、今日も宇宙の果てから刺客を放ってきたのだった。

12

 鎌倉の腕の中で、皮と恥垢の毒から解放された前川は力のない微笑を浮かべていた。大穴の空いた天井から差し込まれた浄光が病み呆けた彼の顔を照らしている。
 前川は長い吐息を漏らした。
 「斬ってくれると信じていた」
 50年の歳月の間、包皮の中で熟成された恥垢の臭気に顔をゆがめながら、鎌倉は笑った。
 「莫迦だな君は」
 「わかっていたんだだろう。僕と馨のことは」
 「木太刀で奴をまさぐった時の君の顔は見ものだったな」
 前川はユカリの方を向いた。白蝋のような頸筋が血だまりに突き出ている。
 「娘は許してくれるかな」
 「どうかな」
 恥垢の臭気の靄が晴れると、信じがたい力で以て包茎切除の体で前川は立ち上がりメイド屋を後にした。鎌倉は追わなかった。

13

 血と肉片の海に横たわりながらユカリは或る同胞感情を享受していた。
 「あの人にはわたしの肛門が必要だったの。あの人もどうすればいいのかわからなかったの」
 鎌倉は血に浮かぶ少女を見下ろしていた。あの丘で命を落とした懐かしい従卒のように。
 「そこまで人を好きになれば上等だ」
 「すごいわ。すごい喪失感。息が詰まりそうな。肉親を失ったみたい」
 「くよくよするな。人類皆何千年もそれを味わってきたんだ」
 「さう、みんなこんな気分を。信じられない」
 やってきたユキと田無博士に後事を託して帰ろうとすると、ユカリが呼び止めた。
 「わたしこれからどうすればいいの。どうやって生きればいいの」
 苦悩が過去になると、近づく災いへの慄きが娘を蹂躙しつつあった。
 「せいぜいいい女になるんだな」
 「あなたはどうなの。こんな目に遭って、なんで生きていられるの」
 「あの戦場でミドリはわたしの勇気の泉だった。この泉は彼女が人妻となった時から枯れ始めている。間もなく底をつくだろう。だがその前に行ける所まで行ってみたい。あの丘の向こうまで」
 「そこには何がある?」
 未来しか持たぬ女の慄きに鎌倉は慈愛の声色で応えた。
 「とびっきりの女さ」

14

 手負いの前川が房総の海に到達した頃、浜辺の空は満天の星々に覆われていた。氷室薫は海辺で横たわり死を待っている。彼は今生を全うしようとしていた。彼の肛門は夜明けを待たずして爆発することだろう。
 砂を踏む音に促され、頭をあげた氷室馨は克己的な顔つきを試みた。意志の貫徹のもたらすおだやかな安息はすでに没落していた。
 前川が現れた。
 「今頃何しに」と強がる馨だったが、愛する男に寄り添われその温もりを覚えると威嚇的な力は決壊した。
 「俺はやっぱりあんたのものだ。棄てられたって永遠にあんたのものだ。どうかしてた。嫉妬してあんたの娘に種付しちまった。あんたは娘にあの女ばかり見ていたんだ」
 前川は何も答えない。ただ青年の、押し迫る断末魔の痛切な叙述を聞き続けた。
 「いたくてさむくておそろしいよ」
 「せいぜい温めてやるさ」
 捲き毛をもてあそんでいると時を忘れた。濃紺から乳白へと諧調を帯び始めた空が暗い海原に光芒を投じた。
 漏れ来る苦しみの声が愛する男に最後の語りかけを行った。
 「はやくいきなよ。これが爆裂したらあんたもただじゃすまない」
 前川は断固たる力を以て拒む青年の抱擁を持続させた。そこに暴勇の震えは最早感ぜられなかった。
 「最後くらいかっこつけさせろよ」
 永遠の中に飲み込まれようとする青年を最後の絶望的な幸福感がつらぬいた。
 「ちくしょう、かっこいい」
 青年を籠絡し妻をかつて一瞬惑わせたあの微笑を前川はいつまでもたたえていた。
 「だらう?」

15

 前川邸を見舞いに訪れた鎌倉を迎えたのは、スカートを揺らめかせる足取りに見事なアタラクシアを誇示しながら部屋に入ってきたユカリであった。その有様は如何にも絵画的で母の面影に満ちている。
 女の自尊心の驚異的な力にたちまち側隠の情は冷や水を浴びせられるも、揺れ動くスカートが菫の香気を鼻腔に届ければ、懶惰な空気が直ちに恢復され、鎌倉の漁色家の気分に満たされた。
 「元気そうだな。肛門の調子はどうだ」
 ユカリはフンと一瞥すると長椅子に圧政的ともいえる風采を沈めた。それは最早夢見る顔ではなかった。
 「母ってどんな人だったのかしら」
 女の果敢な態度に満足を覚えながら、鎌倉は安らかに応じた。
 「風の様な女だった。われわれの包皮を震えるだけ震わせ、風のように去っていた。君は母似だから、やつはさぞつらかったろう」
 「いやだわ、玉無しどもは。もっとしかりなさい」
 ユカリは立ち上がった。
 「ところで今日は何用かしら? わたしは忙しいの」
 自分が美しいと知っている女の驕慢が緑の応接間をたちまち満たした。その容姿にはありし日の母の高雅な血筋がその本性をあらわにしていた。
 「男のすることなんて決まっているさ」
 美に反応した表情筋の緩みを鎌倉は享受していた。
 「とびっきりの女に会いに来たのさ」

16

 あの丘陵を前川は登り続けていた。戦略極地戦基幹連隊「ブロンソンズ」士官候補生の前川。彼はいまだ童貞であった。
 四日熱で覚束ない足取りは丘の向こうまで続くマウンテントループの骸に励まされ前川を丘の頂まで運んだ。
 潮騒が彼を迎えた。
 眼下に海が広がっていた。その波打ち際には人影が二つ認められた。
 士官候補生前川はその距離からも、戯れながら海へ吶喊する半裸の大男とドワーフが誰かを知ることができた。
 忘れるはずもない。
 懐かしいケネディ少佐とボーグナイン曹長である。
 彼らはクラヴマガの技を掛け合いながら波に飲まれ、野太い歓喜の声を交わしていた。
 砂の踏む音がした。かつての上官が前川の傍らに立っている。
 彼らは瞳を交わした。
 上官の相貌に刻まれていた峻烈な意志はすでに消えていて、今そこには穏やかな調和が漂っていた。
 「やっと来たな前川士官候補生」
 「大佐殿。ここは一体どこだい?」
 ブロンソン大佐は微笑を浮かべる。
 「わかってるだろう? ここはブロンソン大陸だ」
 「大佐、それは本当なのか? 俺は本当にブロンソン大陸へ来れたのか? 大佐、俺はブロンソンズの名折れだ。ここに来る資格なんてないんだ」
 「俺達がお前さんを置いて先に来たのがいけなかったようだな。だがな、前川候補生、お前さんは気づいていなかったようだが、俺たちはいつも一緒だったんだ。お前さんのよころびも悲しみも全部つつぬけだったのさ」
 ケネディ少佐とボーグナイン曹長がふたりのもとへやって来た。
 曹長は満面の笑みで前川の股間を指さした。前川は全裸だった。
 「ついに切ったんだって?」
 「そうだ、曹長、よろこんでくれ。俺、とうとう皮を切ったんだ。これで俺も一人前のブロンソンズさ」
 少佐は眉間に皺を寄せ子細にその一物を観察した。
 「いや、これは随分と手荒にやられたものだなあ。再生の危険がある。なあ曹長?」
 「左様で、少佐殿。また悪さをしてはいけない。もっと念入りに切っときましょう」
 「ヒエッ、ご容赦を」
 波頭の連なりに縁どられた深碧の海に男たちの黄色い声が轟いた。
 冷たい空だった。陽光は随分と高くなっていた。湿り気を帯びた風が、男たちの影を揺らしていた。その姿は遠く彼方で淡い形姿となり、やがて不明瞭な輪郭となり、永遠のなかに消えて行った。
(了)