仮文芸

現代邦画とSFの感想

未練と馴れ合う

 トト・ザ・ヒーロー』は『秒速』の構成や演出に大きな影響を与えたと考えられるが、同時に秒速を『トト』の結末に対する返歌だと見なすこともできる。
 両作ともモチーフは男の未練であり、別れた女に呪縛された男が彷徨を重ねる。『トト』のラストパートはミュージックビデオの体裁であり、男は機上から散骨されその未練が空中を飛び交う。
 トトには秒速の踏切の原形も出てくる。
 横切る列車の向こうにヒロインが見え隠れる。ヒロインは他の男と談笑している。主人公は気が気でならないのだが、列車が過ぎると女の姿は消えている。
 秒速の踏切は、これに『Papa told me』第11巻の、信吉と千草が邂逅する場面を援用して成立したと考えられる。『PTM』の影響はたとえば冒頭のマックの場面にも窺えるからだ。
 新海誠がいつトトを見たのかわからない。篠原美香との破局の後に見たとすれば、トトは新海誠をどれほど恐慌させたか想像に難くない。たとえそれ以前に鑑賞済みだとしても、やはり回顧のかたちで彼を苛んだであろう。別れた女に呪縛されながら男は老人となり自裁する。自分もこのまま女に呪縛されてしまったら、かかる結末を迎えかねない。
 かくして『秒速』は解放の物語として意図されたのだが、受け手には絶望しか伝わってこない。主人公は自分の不幸な境遇を自嘲して憐憫するナルシシズムに侵されていて、失恋男の典型的な心理が叙述されるばかりである。解放の表現に失敗しているのだ。
 『よりもい』は秒速の失敗してしまった結末に対する返歌を、宛先のないメールを援用することで行っている*1
 秒速の主人公は宛先のないメールを送り続ける。『よりもい』のヒロインも故人のアカウントへメールを送り続けている。秒速の宛名のないメールは宛先のないまま、二人の去った無人の踏切に滞留する。
 『よりもい』ではこのメールが自己回帰する。ヒロインが個人のアカウントを開くことで、宛先のないメールが宛先を獲得する。次々と故人に宛てたメールが自分に届くことで、故人の死をヒロインに実感させる趣向になっている。
 では、秒速が解放感の演出に失敗したのは叙述法に問題があったからか。それはそうなのだが、しかしわたしは『監督失格』の平野勝之を思い出すのである。
 平野勝之は5年前に亡くなった林由美香から解放されるために『監督失格』を撮っている。ところが、タイトルが示すように呪縛からの解放に頓挫してしまう。ラストで彼は気づいたのである。本当のところ自分は解放されたくない。映画の最後は、深夜の住宅街を自転車で疾走しながら「早く行けよ、行っちまえ」と泣き叫ぶ平野で終わっている。
 乗り越えられないのである。あの踏切のタカキの自嘲は諦念なのである、踵を返す足元のカットはこの痛みと一生付き合っていく覚悟の表明なのである。
 『監督失格』の製作は庵野秀明である。これは示唆的だ。
 社会的成功と新たな配偶者の確保も男を癒さない。エヴァを作ってモヨコと結婚してもみやむーの呪縛から解放されない。むしろ男の憎悪は亢進するばかりだ。Qの現場でこのふたりはもはや互いへの憎悪を隠そうともしない。養護教諭破局したのちインテリ女優と結婚して娘を儲け興行成績250億でも美人編集者と浮気するのである。
 むしろ癒されてはならない。くやしさは持続せねばならぬ。俗流生態学の知見に拠れば、くやしさを持続させる習性のある個体の方が適応度は高く、その「くやしい!」形質は次世代に伝わりやすい。くやしさの形質があれば、棄てられたオスはメスを見返すためにより優れたメスとの交接を意図して社会的成功にまい進するはずだ。
 解放されてはいけない圧が失恋者を追い込み、こうして文明が勃興するのだが、むろん圧をかけられる身としては堪ったものではなく、事象は文芸的観察の格好の対象となる。