『横道世之介』(2013)

 『ほしのこえ』は驚嘆すべき物語である。リリース当時とは全く異なる意味合いでわたしたちの涙腺を揺さぶってくる。
 本来は結末がぼかされた話だった。ミカコとノボルの顛末は、幾分かの希望を交えながらも、作中では明らかにされなかった。ところが、今日のわれわれはあまりにも凡庸な結末を知ってしまっている。想いは時間と距離を超えられなかった。これだけ思慕し合っても、新海誠と篠原美香は破局したのである。
 この顛末が分かっている視点で物語を反芻すると、全ての台詞はアイロニカルとなり哀切はとまらなくなる。
 「わたしはもうあの世界にはいないんだ」
 「わたしは、好きっていいたいだけなのに」
 「届いて…」
 アイロニー、つまり「無知の装い」になるのは当然であろう。語り手自身が自分たちの顛末を知らないのだ。


 横道世之介』の舞台、バブル期の美術は実に悩ましい。現在との距離感が微妙で、美術の尤もらしさの真贋がよくわからず落ち着けない。
 わざとらしく卓上に陳列される、250mlのカルピスソーダ、5/8チップス、キンチョール等々の懐かしのガジェットに注目すれば構築物の不自然さが鼻につく。しかしロケになって、現代の実景物を援用しながらも考証をクリアした画面を作って来ると、まるで真贋がわからなくなる。すべてを構築せねばならないほど時代を隔てるわけではない距離感が、作り物なのか自然物なのか区別がつかないような眩惑をもたらしてしまう。
 同様の混乱は叙述法にもみられる。
 横道世之介は複数の人物によって回想される過去の人物である。人々が彼を現在から回想する模様が時折挿入される。ところが、本筋たる回想された過去は回想されつつある世之介当人によって陳述されている。ここにも、陳述物が回想なのかリアルタイムなのか区別のつかない眩惑が生じる。美術であれ視点であれ掴みどころのない夢のような譜調なのだ。
 この感覚は正しく、意図されたものだったと中盤で判明する。世之介は死人であった。彼はよく知られた事件の犠牲者であって、『横道世之介』とはその人物の青春時代を追った話であると暴露される。死者の夢という恐怖映画の様式が郷愁の淡さを活用していたのである。
 かくして、他愛もない日常がアイロニカルとなる。すでに死んでいる顛末を知ることが日常劇に愁訴を付与してくる。ただ、この趣向が誤誘導なのだ。死亡という顛末が本当に知られるべき顛末を隠している。
 世之介はバブル期の法政に在学している。そこでは吉高由里子との恋が進展しつつある。しかし、このふたりは結局別れたと受け手は予め知らされてしまう。知らされた上で、回想の恋は進展してますます盛り上がり破局を迎えないまま終わる。既に死亡よりも破局という情報の方がよほど堪える。あるいは既死と破局の情報が互いに効果を増幅し合って、月並みな日常劇に強烈な愁訴をもたらす。
 これほどの愛慕が終わってしまう。月並みな現象である。月並みだからこそ無念なのである。