小説『メイデンフュレーの哀歌(後篇)』

登場人物

鎌倉仙太郎:男爵。退役恒星間戦略兵器。漁食家
松野栄太郎:立憲政友会院内総務。漁食家
岩崎弥助:男爵。憲政会のオーナー
一弥:岩崎の御曹司
ミハル:《クランツラー》の雛メイド
ユキ:《リベルテ》のメイド
神宮寺:内務省警保局長
福田和夫:日本共産党中央委員政治部長。漁食家
漆原葉月:新劇女優。帝国女優学校校長。
林:上海青幇の頭目
田無博士:帝大教授。肛門の世界的権威。
ミドリ:恒星間戦略兵器。コミンテルン極東部長。

1

 鎌倉仙太郎はこみ上げる薄笑いを禁じ得なかった。仇敵の松野栄太郎が仏頂面でやって来たのだ。十年前、大いに心焦がされた赤坂のメイド某を奪われてからこの方、松野には幾度となく煮え湯を飲まされてきたのだった。
 立憲政友会は今や瓦解の危機に瀕していた。議会開院を前にして反主流派の河野辰夫が反旗を翻し、憲政会の目論む内閣不信任決議河野派が同調する構えを見せていたのだった。松野栄太郎は河野と対立する総裁派閥、佐伯派の大番頭である。
 事の起こりは前回の総裁選まで遡る。
 現総理、佐伯は2年で禅譲の約束で河野辰夫の協力を取り付け、総裁選を制したのだったが、総理就任後に長期政権への野望が芽生え禅譲を反故。かかる驕侮に怒り狂った野人河野の叛乱を招いたのであった。
 そして開院式当日、臨御する御上の出迎えで鎌倉仙太郎が貴院の殿様たちと議事堂玄関前に雁首を揃えていると、ベストの落としに両手の指先を突っ込んだ松野栄太郎が列に加わるべくやって来たのであった。
  鎌倉は喜色を浮かべながら松野を嘲弄した。
 「よお院内総務さま。火の手が方々で上がっているようですナ」
 「なあに、むしろそちらの殿様方が性懲りなく火遊びをやって、うっかり火傷しないか、その方が心配ですわい」
 「わざわざ大院内総務さまに心配していただけるとは痛み入りますなあ」
 一通り火花を散らした後、松野が話題を転じた。
 「ところで貴君の好みは千葉さおりだったらう? さおりん似の雛メイドがクランツラーに入ったそうな」
 「実にけしからんですな。そういうのは人を惑わすから近いうちに成敗せねばなりますまい」
 「成敗されんようにせいぜい気を付けることですな」
 「なあに、其れも又良し」
 漁食家二人の莫迦笑いが秋晴れの空に響き渡ったところで、御上の馬車列が正門から入って来た。

2

 開院式の後、鎌倉仙太郎は帝都商工会議所の午餐会に列席し帝国ホテル孔雀の間で旧知の旦那衆とともにメイド話で気炎を上げた。交歓が一段落して周囲を見渡すと、男爵岩崎弥助の浮かぬ顔が目に入った。岩崎は憲政会の事実上のオーナーである。政友会が割れようとする時分であるから、野党オーナーとしては高揚があって然るべきところだが、随分陰気な様子である。興味を持った鎌倉は岩崎に近づいた。
 「どうしたのですかい。便秘ですか」
 「色々な意味でな」
 心此処にあらずな様で適当に応じる岩崎であったが、会話の途中で何をか思いついたのか、突如調子を変えて「後日、本邸に来てくれないか。相談がある」と言ってきた。
 松野栄太郎の釘差しに立腹していた鎌倉は火遊びの気配を覚え、あの憎らしい栄太郎に吠え面をかかせる機会が到来かとウキウキ。翌日、駒込の岩崎邸を訪ねた。

3

 しかし持ち出された話題は火遊びではなく、嫡男、一弥のタングステン鋼のように頑強な貞操に関する困却という、まことにドメスティクなものであった。
 とにかくこの御曹司はお堅い。
 鎌倉も一弥とは面識がある。如何にも情の深いメイドが見惚れてしまいそうな色白の美青年である。花街に放り込んだら入れ食いだろうと想像されて、勿体ないと思わないでもない。しかし、そのお堅さを案じるのはまことに莫迦らしい。
 「お家安泰で結構じゃこざいませんか。遊び好きで家を傾けた日には…」
 「それはそうだが、先日神宮寺に出くわして、同じこと言われたんだ。御曹司はお堅くて結構だと」
 「警保局長に? それは面妖ですな」
 「気になって倅の部屋を探ったらこんなものが出てきた」
 岩崎弥助は座卓に菊版の雑誌を並べ始めた。月刊誌『理想』。共産主義の理論誌である。話が愈々きな臭くなってきたので、そろそろ暇を請おうと腰を浮かした鎌倉に岩崎は迫る。
 「子飼いの神宮寺を使って倅をネタに脅迫とは、松野の外道がやりそうなことだ。ということでメイド狂いの君に頼みがある。倅を遊びに連れてって呉れ」
 「そりゃあ、堅物にはメイドがいちばんですがねえ」
 火遊び欲しさに来ては見たものの、実際に炎を目の前にするとウジウジする鎌倉であったが、『理想』を手に取って頁を開き、論文著者に福田和夫の名を認めると微温的態度は崩落した。
 福田和夫。現共産党の指導的理論家にて鎌倉の仇敵である。

4

 福田和夫との件にも千葉さおりが絡んでくる。
 一昨年、詩人の中村秀峰を山の上ホテルに訪ねたところ、千葉さおり似の東女生を紹介された。仮にNとしておこう。
 東女生Nは蔵書目当てで鎌倉邸に通うようになり、やがて某待合の奥座敷で鎌倉と密会を重ねるようになる。
 ところが、約束を反故され、座敷に放置される夜が度重なるようになったのである。
 当初のところNの仕打ちに対して、鎌倉は玄人の蛮勇を振るって、湧き上がる嫉妬を享しもうと励んだ。千葉さおり状の華奢な四肢が他の男の手にかかる様を想像しては、燃え盛る恋慕におおよろこびで身を焦がした。しかし、百戦錬磨の漁食家といっても、やはり人間、限度がある
 ついに堪りかねた鎌倉はNを尾行して、新たな恋人の正体を知ろうとするまで堕ちた。東女の校門を出て西荻から省線に乗ったNを追いつつ、何度遭遇しても決して慣れることはない、それどころか増幅するばかりの、失恋の轟鳴るようなと悲劇感に浸りきった。
 お茶の水で下車したNは山の上ホテルへ向かった。中村秀峰を訪ねるかと思えば、入っていったのは彼の仕事場ではなく隣室である。
 鎌倉は秀峰から聞いていたのだった。隣室の住人、共産党理論指導者、福田和夫のモテ振りを。
 しかしながらこの話には蛇足がある。
 Nを尾行していた鎌倉は更に、リベルテのメイド、ユキに尾行されていたのであった。ユキはユキで鎌倉に放置されるあまりかかる行為に及んだのである。
 「...その晩、嫉妬に狂った年増メイドの疾怨が吾輩の躰に侵掠の限りを尽くしたのはいうまでもない」
 鎌倉は露曝癖に促されるまま、ユキの手管の数々を子細漏らさず語り始め岩崎を激昂させたところで、客間に御曹司の一弥が入ってきた。
 「何の奇声かと思えば、貴方でしたか。一体の何の悪巧みですか」
 「御曹子、勉強ばかりでは毒だ。それがしがメイド遊びに連れ申そう」
 「不潔ですね」
 「穏やかじゃないぜ。メイドほど綺麗なもの、この宇宙にそうあるもんじゃあない」
 「貴方のことを申し上げたのです」
 キーっと口惜しがった鎌倉は、退室する一弥を見送ると、岩崎に猛々しく宣言した。
 「ようがす。あっしが適当なメイドを御曹司に見繕って差し上げやしょう。あの小童、資本主義の権化に仕立てて呉れるわ」

5

 鎌倉仙太郎、生意気な小童を成敗せんと怒りの余りこのときは功を焦った。
 最近、五反田のメイド窟を根城に暗躍する見不転メイド、ようは娼婦なのだが、スライムのような質感と弾力で男を攻め立てると評判の某に一弥を宛がうことにしたのだった。しかし、誘っても来るわけがない。仕方がないので、本郷から下校中の一弥を菊坂下道の人目が途切れたところで拉し、〝スライム“の待機する木挽町の待合の離れの座敷へ放り込んだ。スライムには事情を説くと言い聞かせ、存分に致すように頼んである。
 たちまち、スライムの手管の峻烈さを想像させて余りある一弥の絶叫が轟き、縁側から様子を窺っていた鎌倉は、これはとんでもないことをしてしまったと戦慄してとりあえずその場から脱兎。翌朝、回収に出向いて立ちまわしてある屏風の向こうを恐る恐る覗くと一弥が白目を剥いて横たわっている。
 「よくも倅を傷物に!」
 岩崎邸に一弥を運び込んでみれば弥助に激昂される始末で、これには鎌倉も逆切れした。
 「あんたが傷物にせえと!」
 「これからどうするつもりだね」
 「知るか。いや、なあに、御曹司の岩盤のような貞操をぶち抜くためには、あれくらいの刺戟が必要だったのだ。これでもう淫慾の活性化は間違いない。あとはどうにでも料理して呉れるわ」
 口舌を弄して下卑た笑いを放つ鎌倉だったが、実のところ何も考えていない。岩崎邸を後にすると何もかも面倒臭くなってきて、逃避のつもりで新宿のクランツラーにその晩、顔を出してみた。松野栄太郎の言っていた、千葉さおり激似の雛メイドの件を思い出したのである。
 ソファに腰を下ろすと、エプロンドレスを纏った千葉さおりが出てきて、「御前、おかえりなさいませ」と千葉さおりらしく寒々と挨拶をする。
 鎌倉は「うむ」と鷹揚に応じると、雛メイドの腿に喰い付き顔を埋めおもむろにクンカを始めた。

6

 かの雛メイドはミハルというのだが、一応千葉さおり似らしくツンツンを装ってはいるものの、鎌倉が喰いついてみると玄人の容儀は崩れ雛メイドらしいウブな戸惑いが腿から伝わってきて、これが堪らん。
 雛メイドの花咲ける香りは鎌倉をたちまち無碍の境へと運び上げていく。半ば失いかけた意識の中で、鎌倉は黒い邪念にそそのかされるまま、恐るべき着想に至ったのだった。
 (これは使える)
 要は、貞操を強奪された結果、謎の病の床に就いたのを幸いとして、雛メイドのミハルを介護人として一弥の下に送り込み、介護という名分の下にきゃつの各性感帯を攻めたて、メイド狂いに堕とし込んでやらうという魂胆である。
 その晩のうちに鎌倉はミハルの置屋に話をつけ、専属介護メイドとして彼女を借り受けることにした。随分と入用になったが、岩崎持ちなのでどうでもいい。翌日にはミハルを同伴して例の五反田のスライムを訪ね、一弥の性感の在り様を聴取した。
 岩崎家の執事、メイド頭、お付きの書生共々、事情を得心させたところで、満を持して鎌倉はミハルを岩崎邸に送り込んだのだった。これから一弥の、半童貞特有の感度高き身體にもたされるであろう言語を絶した刺戟を我が事のように想像しながら...
 鎌倉は閑人であった。

7

 そう、今この體の被りつつあるほのかな刺戟は飽く迄正当なる行為の結果であって、施主に邪念はないはずである。にもかかわらず、臓腑の奥から湧き上がる恣な衝動の奔流は何か。こんなに僕は助平だったというのか。
 この自覚は正しいのだが、一弥の戸惑いも尤もである。ファーストコンタクトからミハルの攻撃は熾烈を極めたのだ。
 看護メイドと紹介され、メイド頭の退室を認めるや、ミハルは直ちに謎の病床にある一弥に乗りかかり、驚愕する彼の顔面にその顔をあらん限り近接させて、額に額を接触させた。
 しかし「何事を!」と錯乱の極みに達した一弥に対してミハルは冷淡な声で応じる。
 「お静かに若さま。ただの検温です」
 どう見ても異常なのだが、事実上の童貞である一弥には不信を抱く余裕があるはずもなく、これが介護メイドの流儀かと納得して恣にさせる。
 それでまた新たな試練が訪れるわけである。
 やたらと長い検温の間にメイドの下唇が一弥の上唇に近接。触れるか触れないか、試すような間合いまで距離を詰めてくる。ミハルの唇の温もりが触覚となって一弥の唇を悩ます。
 先日のスライムの件もあって、このメイド淫乱じゃないかと疑念が過ぎる。しかしそこはお堅い御曹司、これは介護の一環であってプレイではない。ゆめゆめ感じ入る素振りを見せて我が助平性を露呈してはならぬと思い直す。しかしそうすればするほど、刺戟は増感されて伝わってくるのである。
 目を回し始めた一弥を見計らったように、彼の口はミハルに塞がれ、息も絶え絶えになったところでおでこ検温はフィナーレとなった。
 ミハルの口唇の攻撃から解放された一弥は、助平を見透かされないよう憤懣を洩らそうと試みるが混乱と恥辱で台詞が浮かばない。この隙に、ミハルの狷介なる手管が更なる展開を見せる。
 「若さまが動くから口がぶつかるのです。これでは体温がわかりません。側臥してください」
 「そくが?」
 「直腸で計ります」
 「なんということだ」
 「何かやましいことでもあるのですか?」
 大有りである。しかし直腸検温を密かに待ち望む助平心を露曝させんためにも、平然として受け入れるほかはなく、こうして臀部は露わとなり、水銀体温計の先が肛門縁を微かになぞり始める仕儀となる。
 一弥は英雄的な忍耐力を以て、この感覚的事象の圧制に堪え続けたが、淫に流されまいとする程にやはり増感するのである。
 もはや彼は決壊を覚悟していた。放縦で恥知らずな前立腺の躍動せんとする気配に怯えながら…

8

 全裸に剥かれ、背中、首筋、臀部、二の腕、わき腹等々に散々なる清拭を加えられながら、一弥の気位は次第に衰えていった。
 成す術もなく鮪のように寝台に転がった一弥の半身が後ろからミハルに抱え込まれると、彼の口腔は歯刷子に侵入され歯茎が弄られる。
 メイドの漲る芳香に沈みながら、一弥の思考は汚濁していく。
 最初に口唇を奪ってここにきて歯磨きとは順序が逆ではなかろうか。いや、歯磨きして口唇を奪って風俗じみてきて、やはり何か医療らしさを醸すために、最初に口を塞ぐ必要はあるな。
 ここにおいて一弥はあの深きキスが不慮の事故だという設定を忘れている。
 (実はメイドの欲望で接吻は敢行されたのかもしれん。いやそうであってほしい)
 今まさに生じ始めた愛慕が一弥の思考を歪めたのである。鎌倉の目論見はここにおいて達せられたのだった。
 後はもう愛の確証のなさに打ち拉がれる日々である。どんなに手管が淫逸を極めても介護の一環とされてしまえば、そうかと納得するしかない。加えて千葉さおり状のメイドであり、態度は相変わらず冷淡なままである。自分の童貞性に自覚がある、いや正確に言えば自覚をしていたい一弥としては、全ては童貞の勘違いとして解釈してしまいたい。しかし…
 数日も経てば、短時間ながら一弥は離床出来るようになる。庭先を散策して眩暈を覚え、時期尚早かと自室に戻ると、寝台にうつ伏せになったミハルが枕に顔を埋めクンカしている。部屋の入口で立ち尽くす一弥。気づいたミハルは大儀そうに寝台を降り、「お加減は?」と訊くとそのまま部屋を出ようとするので、これは流石にどうかと一弥は彼女を飛びとめた。
 「あの…枕に何か?」
 ミハルの態度は崩れない。
 「枕の覆いを洗濯するか確かめていたのです。ご存じありません? 枕クンカは介護メイドの基本です」
 「そうなの?」
 そうなのか? 
 動機はどうであれ、自分の枕が思いっきりクンカされたという事実自体がもたらす愉悦は禁じ得ないのであって、そういえば初日以来、唇が奪われる〝事故“は発生しておらぬな、という物足らなさに促され、ミハルが立ち去ってしまうや、今度は一弥の方が枕に顔を埋め、メイドの残り香の吸引を試みる。
 獰猛なるクンカを繰り返しながら、夜な夜な苦しめられる不審が蘇ってきた。
 一弥の部屋とミハルのメイド部屋は中庭を挟んでほぼ正対する位置にある。女性使用人の浴室は、メイド頭の部屋を挟んだミハル部屋の隣にある。ミハルが浴場に赴く際、一弥の部屋を通過するはずがないのに、毎晩、ミハルと思しき足音が、わざわざ迂回して一弥の部屋の前を経由して浴場に赴き、帰路も同じルートを辿るのであった。
 一弥はかかる不条理に苛まれるあまり、毎晩ミハルの足音が通過するたびに激昂するようになった。
 「あの淫乱メイド。なぜにこの扉をけ破って襲ってこない」

9

 一弥がほぼ肉体的恢復を遂げたとの知らせを受けた鎌倉仙太郎は、無事メイド狂いに堕ちたかどうか、経過をミハルから聴取すべく一弥の留守を見計らって岩崎邸を再訪した。
 客間に姿を見せたミハルに進捗を尋ねると、相も変わらない千葉さおり状のきつい美貌に陰のある歪みが僅かに生じた。
 「童貞なんです。あの人。莫迦みたい。お勉強ばかりして、本ばかり読んで。わたしの愛撫に感じているのは見え見えなのに、哀れな顔でそれに耐えてるの」
 と最初は口を尖らせるのだが、次第に雲行きが怪しくなってくる。
 「白蝋のような肌...  男のくせに女の子みたいな細い指... 柔らかい唇...」
 そしてその場に崩れ落ちると、顔を覆って声を震わせた。
 「わからない、わからないの! わたしどうしてしまったの? どうしてこんなに人を好きになってしまったの? あんな意気地なしをどうして! あのひと、毎晩わたしがわざわざ部屋の前を通ってあげているのに微動だにしないの。あの童貞、これだけやっても何で襲ってこないの!」
 青年の、メイド殺しの天性に対する羨望と感嘆から、鎌倉の口角はだらしなく上がり、下卑た笑窪が浮かんだ。
 「やれやれ、とんだことになったわい」
 こうなると事は時間の問題で、日を経ずして岩崎が血相を変えて鎌倉邸に駆け込んできた。
 「やりおった、やりおったぞ。ついに倅があのメイドと!」
 岩崎は震える手で行為の始終を採録したリールテープを鎌倉に差し出した。
 「そう昂奮なさらんでも。結構じゃないですか、これでお家安泰。御曹司も”お勉強”どころじゃありますまい。心置きなく政権を奪いなされ」
 テープを再生すると、聞こえてきた童貞状の青臭い喘ぎがたちまち鎌倉の鼻腔を広げるのであるが、すぐに事態は戦慄すべき展開を見せて、鎌倉は岩崎の尋常ならざる様子の意味を理解し固まる。男の喘ぎに変わって、悲鳴とも嬌声ともつかない物凄い女の叫びが、鎌倉邸の書斎に燦然と轟いたのである。
 誤って呪われし王墓をあばいたかの如く鎌倉は震え慄いた。何か恐ろしいものを覚醒させたのではないかと。

10

 介護メイドの役割を終えてクランツラーに戻ったミハルの下へ、完堕ちした一弥は足繁く通い、都新聞の花柳欄を賑わせた。この顛末を回想する度に、気高いものを引きずり下ろしたという狡獪な敗徳感情と不器用な恋の仲介を行い得たという徳高い感情がない交ぜとなって鎌倉の鼻腔を膨らませたものだった。しかし事態は暗転する。
 ミハルに水揚げの話が持ち上がったのである。
 容儀においてここまで千葉さおり状のメイドも珍しく、一弥を堕とし込んだ手管からしても、雛メイドでありながら早々と水揚げの話が来るのはおかしくはない。名乗りを上げた旦那は、当時、メイド狂いで欧州に名を轟かせていた独逸貴族某である。
 むろん一弥はこれを阻止したい。したがって入札になるのだが、某が相手だと競り値は天井知らずだ。若旦那の分限で工面するのは、さしもの岩崎家の嫡男としても、一弥には手に余る。そこで父に泣き付いたところで、お家騒動となる。
 岩崎男爵としては息子のメイド狂いは〝お勉強“程致命的ではないとしても、これはこれで都新聞に格好の艶種を与えることになる。金策の面でも時期が悪い。政友会の内紛で内閣不信任が通れば総選挙である。憲政会のスポンサー岩崎は幾らでも入用となる。ここでメイド如きに費やすわけにはいかないのだ。
 ところが、岩崎の恐れる事態は現実となり、お家騒動は政界に飛び火したのである。思慕の余り狂奔した一弥に岩崎は刃傷に及ばれ、選挙資金が奪取される。一弥は落札したミハルとともに出奔。選挙資金の消失で憲政会は不信任決議を断念。不信任に呼応を約していた政友会の河野派は梯子を外された。結局、河野辰夫の離党で乱は収束したが、野人河野は憤激の余り音羽の松野栄太郎邸の門前で割腹を敢行する騒ぎとなった。

11

 この争乱の間、当事者の一人である鎌倉は早々に逐電し、例によって中野坂上のユキ宅に身をひそめていたのだったが、一弥のメイド狂いが政局に至る不可解な成り行きに疑念を抱き、旦那衆に探りを入れてみると、松野栄太郎の恐るべき手管が明らかになってきた。独逸侯爵某をミハルに誘導して狂わせたのは松野であった。そもそも鎌倉自身、ミハルの事を松野に吹き込まれたのだった。松野は最初から岩崎の選挙資金を狙っていたのであって、一弥の醜聞は目的ではなく手段だった。
 かくして火遊びのつもりが美事に大火傷を負ってしまったのである。
 屈辱の鎌倉であったが、メイドの味を占めた一弥には同志愛というか、父性愛のようなものをほだされもする。岩崎には悪いことをしたが、駆け落ちした若者たちの意気地に好ましさを覚え、彼らの洋々たる前途を祈りたくもなるのである。それにしてもこうなるのなら、一弥に投じる前にミハルの腿をもっと存分にクンカしておけばよかった、という悔恨を僅かに抱きながら…
 魔はこういうときにさすのであった。
 議会が会期末を迎え、官邸の午餐会に貴院の殿様連と招かれた帰り、玄関ホールで「御前」と鎌倉を呼び止めるものがいる。内務省の神宮寺である。鎌倉は抜刀した。
 「小役人の分際で恒星間戦略兵器様を謀るとは。刀の錆にして呉れよう」
 「まあいいじゃありませんか。メイドで城を傾けるなんぞ男子の本懐ですぞ」
 「それはそうだが、しかし勿体ない。あれほどの千葉さおり状のメイドをみすみす呉れてやるとは」
 「先日、上海に行って来たのですがね。魔都のメイドは凄まじいものでしたわい。御前好みの、千葉さおり状の高級メイドもちゃんとおりましたよ。しかも見不転」
 「なんと見不転! それではまるで上原〇衣だ」
 千葉さおりには散々ひどい目に遭っている鎌倉だったが、もはや不幸の味もしめたというか、ミハルを物にした一弥への羨望もあって、我慢が効かぬ。翌日には機中の人となりおおせたのだった。

12

 上海憲兵隊のビュイックで鎌倉はフランス租界へ向かった。豪壮なアパートメントに到着すると、秘書の出迎えを受け最上階に案内された。アパートメントは青幇の頭目、林某の物件で、最上階がその住まいである。鎌倉は書斎で林に迎えられ、饗応にあずかりながら暫しメイド話を交わしていると、秘書が入ってきて林に耳打ちをする。千葉さおり似のメイドがやって来たらしい。
 千葉さおりに餓えた鎌倉は脂下がりながら扉の開口を待つ。予想通りというか、入ってきたのがミハルで内心では落胆を覚えても、やはり千葉さおりの形状に促されるまま脂下がりを持続させていると、それが余程だらしのない顔容だったのか、ミハルは条件反射の如く蔑視を送ってきた。
 なかなか居住まいを正さないおのれの顔面に憤慨しつつ、無理やり快活な声を鎌倉は作った。
 「やっぱり君か。御曹司とはうまくいってるかネ? いや、だったら見不転に堕ちるわけないか」
 ミハルは無言で背を向けると、蝋で艶出しした床を鋭く響かせながら立ち去った。
 「フラれましたな」
 林が冷やかしを言う。
 「フラれたなあ」
 鎌倉が肩を落として見せる。
 「いや御前。千葉さおりもいいが、安那ちゃんはどうです? 安那ちゃん似の見不転も、うちには取り揃えておりますよ」
 「そいつはすごい。それにしてもシュウのド外道は、いつか刺さされるぞ、あやつ」
 「ちげえねえ!」
 漁色家二人の馬鹿笑いが書斎の家具を震わせた。

13

 早朝に訪れた大観園は、立ち並ぶ不揃いで細長い建造物の織り成す乱杭のようなシルエットを霧の中に浮かべていた。城壁の門を潜り、その東洋一のメイド魔窟に足を踏み入れた鎌倉は、林の秘書に案内されて、軒の間にある通路にひとつに入っていった。外からは洞穴のように見えた外光の届かぬ通路は、入ってみるとメイド窟の看板の青白い蛍光灯やフィラメントの黄色い白熱光に燦々と照らされ思いのほか彩度がある。剥き出しの配管から漏れた水で湿った床が灯火を反射している。
 混凝土の階段は、錆びついた欄干の方々に干された洗濯物によって蒸すような有様で、踊り場の隅には塵がたまっている。
 鎌倉は中層にある看板のない部屋の扉を開いた。中は煙で紗がかかったようにぼんやりとしていて、ただ、部屋の中央に置かれ、煙の向こうで輝きを放つ夥しいランプが鎌倉の目を惹いた。ランプは煙槍用の煙燈であり、それを囲むように並ぶ寝台の上では、阿片癮者たちが思い思いの姿態で横たわり、煙燈の炎が人々の奇怪な影を漆喰の壁に浮かび上がらせている。
 鎌倉は隅の暗がりの方に向かった。
 寝台に横臥した青年が、髭に覆われ病みこけた頬をかろうじて枕に支えられながら、傍らで輝く煙燈の黄色い光を眺めていた。
 「御曹司、えらく粋な姿になったな。何があったんだ」
 一弥は目を伏せた。
 「どだい無理な話だったんだ。僕は文弱だ。こんな異国であいつを養えるわけがない。あいつは言うんだ。自分が尽くすから貴方は何もしなくてもいいと。あいつが尽くすほど僕は泣きたくなるんだ。自分が不甲斐なくて堪らなくなるんだ。そうして僕はこの様で、あいつは見不転に堕ちたのさ」
一弥は老人のような癮者の顔に絵に描いたような絶望を浮かべた。
 「助けてくれ。どうすればいいんだ!」
 「ばかやらう。甲斐性ない手前にクヨクヨするなんぞ、男の花道じゃないか。存分に苦しめ。苦しみを享しめ」
 「まさか! とても耐えられそうもない。頼むから楽にして呉れ」
 それはそうだと自分の台詞の愚かしさに自嘲しつつ、これはどうしたものかと当惑していたところへ、秘書が阿片膏の詰まった煙槍を持ってきたので、これ幸いと受け取り「さあさあ御曹司、存分にやりなされ」と差し出したところで、閃光に視界を奪われた。窟に閃光発音筒が投げ込まれたのだ。
 すぐに見当識を恢復した鎌倉は抜刀して応戦を試みるが、突入してきたブリーチャーの挙措から正規のCRWチームのそれを認めると、やり過ごさざるを得なくなった。海軍の特務と殺し合うわけにはいかない。
 事は一分もかからず終わり、後には空になった一弥の寝台が残された。
 薄くなってくる煙の向こうに小柄なメイドの輪郭が透けて見える。
 「そうか、君が一弥を売ったのか」
 ミハルは仄かに唇を震わせた。
 「だって… あのひと、このままだと駄目になってしまうから」

14

 一弥は粋過ぎる遊びに堕ちてしまい、おまけに特務に攫われ行方不明。増々岩崎に会わせる顔を亡くした鎌倉は、帰国後もユキ宅で隠棲を続けた。しかし半年ほど経ったある日、茶の間で長火鉢を挟んでユキと他愛もない話をしていると、先日、赤坂のメイド界に波風を立てた水揚げの話題となった。入札が低調で近年稀に見る廉価な落とし値に終わってしまったのだった。
 ユキは首を傾げる。
 「変なの。雛メイドが近頃、すごく増えてしまって」
 鎌倉は思い出した。先日、外出先で運悪く新劇女優、漆原葉月と遭遇してしまい、いい汗かくはめに陥ってしまった。その折、漆原は不思議な愚痴を述べたのだった。
 「劇団の研究生が次々とメイドに鞍替えしていって困ってるのよ。流行かしら」
 鎌倉を実に嫌な予感が襲った。ついでに漆原の寝た件がバレて、その晩は嫉妬に狂ったユキの執拗なる手管による峻烈な責めを存分に被った。
 翌日から鎌倉は旦那衆に探りを入れ始め、各界のメイド汚染の全貌が明らかになってきた。殊に汚染の度合いが高く汚染源の中心と目されたのが、共産党ハウスキーパー達だった。
 鎌倉は内務庁舎に駆け込み、警保局長室の扉を蹴破り、抜刀して神宮寺に切っ先を突きつけた。
 「貴様、一弥に何をした」
 もう何をやられても手遅れと見た神宮寺はにこやかに応じた。
 「何もしてませんよ。一弥君には同意の上で反間になってもらったんです。彼は甲斐性を見せたかったんでしょう。強制送還の後、本郷の新人会に戻ってもらいました。しかし、あのメイド殺しの威力はとんでもないですなあ。接触したハウスキーパー嬢たちはたちまちメイド殺しの色香にやられ置屋にたたき売られ、男どもは皆メイド狂いに堕ち、コミンテルン下賜の活動資金を使い込む始末ですよ。あの女もさぞかしお冠でしょうな」
 時を経ずしてメイド汚染は党中枢に及び、中央委員全員がメイド狂いに陥落したところで、第6次共産党は瓦解したのだった。

15

 田無の演習林の一隅で一弥が発見された。同敷地に住まう寮生が一弥の様子に不審を覚え通報してきたのだった。共産党瓦解後、彼は演習林の寮に潜んでいたらしい。
 一弥はもはや用済みだった。発見の報は神宮寺から岩崎に伝えられ、鎌倉は帝大の田無博士を伴って演習林に向かった。一弥のメイド殺しの色香を抑えるには、前立腺に圧を加え衆道化するより他ない。しかし青梅街道を下っていたシトロエン省線を超えた時点で、計数管のざわめきが尋常ではなくなった。鎌倉は田無博士の顔色を見て手遅れを悟った。
 演習林周辺は封鎖され、一機のS班が初動に当たったが、彼らの手におえる色香ではなかった。最後は朝霞の部隊が臨場して、一弥の周囲に石棺を形成した。60秒で年間許容を超える様な色香だと鎌倉は聞かされた。
 メイド毒の除染が済み、一弥を封じた石棺の前までやってきた鎌倉は途方に暮れる。色香は収束するどころか増々猖獗を揮っている。石棺内で60秒活動できるのもあと少しだろう。そもそも60秒でも困難だ。1分交替で前立腺精錬を行うなど、いったいどれほどの肛門医が必要となるのか。考えただけで莫迦らしい。
 ミハルが、さも其処に居て当然というような無感動な様子で鎌倉の隣にやって来た。鎌倉は石棺に目を向けたまま呻いた。
 「今度ばかりはミドリにしてやられたよ。石棺すらいつまでもつかわからない。関東は無人の野となるだろう。君はご満悦か。君はミドリに送り込まれたのだろう? 松野や神宮寺は君を利用したつもりだったがこの様だ」
 「わたしの村は赤軍に滅ぼされました。わたしは武装メイドの最後の生き残りです。誰が赤軍の手先なんかに。でもあの女はわたしの反間を読んだ上で、わたしを送り込んだのね。そもそも、あの女自身、わかってないのかも。相手を騙すにはまず自分を騙さないといけないから」
 「俺にはよくわからんよ」
 ミハルは前に進み石棺の気閘に手をかけた。
 「手遅れではありません。わたしが色香を吸収してあの人を未臨界にします。あまりもたないけど、肛門を弄るくらいの時間なら」
 「普通に死ぬぞ」
 知れたことを延々と述べる相手を蔑視するようなその横顔は、気閘が解放されると、石棺内に溢れる素晴らしい青の光彩に照らされて、克己と諦念を超えた、ただ生を全うしようとする均斉の妙を湛えた。鎌倉は思い出した。自分がなぜ千葉さおりを愛するのかを。
 ミハルは死への前進を開始した。
 石棺の底に横たわる一弥は全身を発光させている。その上では淡い光を浴びた粒子が青みを帯びながら舞っている。
 一弥は薄目のまま微笑した。
 「君に見合う男になりたかったよ」
 ミハルも口元を綻ばせた。
 「莫迦ね」
 ミハルは腰を下ろし、背後から一弥の半身を抱擁した。最愛の男から伝わる親密な温もりが、人類の達し得る極限の勇気で彼女を満たした。
 青い穏やかな光の波の祝福に耐えかねるように瞼は重くなり、光耀に充ちた領域は消えようとしていた。独り残された清澄で無辺際の晦冥は最愛の男の面影に満ちていた。白蝋のような肌の震え。口唇の温もり。枕に残る香り。あの人の部屋を通るたびに昂じる胸の高鳴り。
 初めて会ったときから大好きだった。
 (姉さま、わたしは好きな人を好きでいられる世界へやってきました)
 思考の余沢が最後に行わせたのは、懐かしい姉への呼びかけであった。
 (そこはどこまでもやさしい地獄でした)

16

 かつて殺し合いが行われた辺土にまた夏が訪れた。
 草地に覆われた丘陵は、波のうねりのような起伏で、殺戮の最中、数多の爆轟によって掘削された地表のよすがとなっていた。
 丘陵の斜面は無数の白い墓標で穿たれている。ふもとから見上げると、頂に向かって墓標は稠密となり、丘の稜線を白く縁取り、底深き青空に浮かぶ雲と重なることで、天に昇るような効果をもたらしている。そこは、銀河の方々で散っていった武装メイドたちの憩う丘だった。
 鎌倉は丘を登り始めた。墓標は等しく夏の微風に浴しながら、永遠の午睡を享しんでいる。
 最凶の姉妹と謳われた娘たちの墓標は中腹にあった。彼女らの長姉の隣には、族長と呼ばれた青年が眠っている。彼らはようやく一緒になれたのだ。
 鎌倉は手紙を開いた。姉妹の末娘に託された手紙だった。しかし男に渡すことはできなかった。
 『親愛なる一弥さん。わたしは長い旅をして貴方のもとへたどり着きました。村を焼かれたわたしにはどう生きていけばいいのか、わからなかった。それを教えてくれたのが、一弥さん、貴方だったのです。わたしはメイドでありたいと欲するほど、自由を覚えました。メイドであることの誉れを知りました。それが貴方を苦しめると知っていながら。貴方はメイドなんていない世界のために戦っていらしたのだから。あなたは御自分のこと駄目な人とおっしゃる。どんなに勉強しても雛メイドひとり救えないと。そんなあなたが大好きでした。貴方は駄目な人ではありません。わたしの姉はわたしの知る限りもっとも勇敢な人でした。その姉が、貴方と同じように、この地上を少しでもましにするために戦っていたのだから。わたしにはあなたがなつかしい。そう思えるまで遠くに来てしまった。わたしをここまで連れ来て、あの村にいてはとうてい望めない想いかなえてくれて、ありがとう』
 手紙は次の言葉で締めくくられていた。
 『よくがんばりました』
 鎌倉は娘を死者の列に加えるべく、コルク瓶からその灰を地表に散じた。
 草が鳴った。
 灰は穏やかな薫風と戯れるように舞い上がり、無感なる墓標の上空を旋転すると、地上を後にした。
(了)