『ジョーカー』(2019) Joker

 ホアキンが深夜映画を見ている場面がある。流れているのはフレッド・アステアの Shall We Dance である。アステアのミュージカルでもっとも好きな話だからこれには目を惹かれたのだが、劇中でアステアを挿入した語り手の自意識は検討されていい。
 アステアのミュージカルは一種のやつし事である。たとえば、ダンス教師のジンジャーにアステアが惚れる。彼はジンジャーのダンス教室に初心者として入学。受け手はここで焦らされる。ジンジャーを驚愕させる変態ステップの披露を待ち焦がれるのである。
 『ジョーカー』のアーサーは、ホアキンだからそうなってしまうのだが、冒頭から奇人であり、事件の進行にしたがって人格が変貌する余地に欠いている。最初から偉人だった人物がつつがなく成功してしまう、身も蓋もない偉人の伝記映画の体裁であるから、やつし事にならざるを得なくなる。変貌ではなく、仮の姿から本来の自分に戻ることに美的体験の根拠がある。
 しかし、貴種漂流譚のバリエーションであるやつし事は社会時評と相性が悪い。冒頭から異人であるから、ジョーカーになるのに説明も理由も要らないはずだが、ホアキンからやつしの印象を薄めるために、波乱がないところへ波乱を組み込もうとする。『仕事の〇儀』のように、人生の転機をでっちあげるような構成にしてしまう。出自への固執のかたちで転機が人工的に構成されるのだ。ところが、最初からいらないものを後付けで挿入するからホアキンの造形は混乱してしまう。場面どころかカット単位で性格が違ってしまう。それにともない変貌の叙述がかえって困難になる。またこの混乱はホアキンを社会問題から決裂させる。
 『ジョーカー』は、最近の作品で謂えば、やはりやつし事の一種である『アリー/スター誕生』と同類の話である。最初から才能のあるガガはクーパーに見出されるや、大した挫折もなく出世する。同様に、コメディアンとしての資質を疑わせる造形叙述をされながらも、結局はホアキンはデ・ニーロに見出され、案外なほどスムーズに成功の糸口をつかんでしまう。これではガガ同様にホアキンは負け犬ではなくなり、暴動を起こす人々との関連を失う。そもそも彼は自分の出自にしか興味がない。社会時評を目論むのならホアキンを通じてそれを実践するのは誤りであり、効果がない。
 ホアキンへの共感を促す点でも、才能があると見えてしまうのはまずい。
『アリー』ではガガの天賦がもたらしかねない受け手の引け目について、これでもかと配慮されていた。ガガの成功ではなく、むしろ彼女の踏み台となった人々の身の処し方に物語が帰せられたのだった。
 
 あくまで意図せずしてリンクしてしまったような、暴動とホアキンの関連のなさは、これはこれでジョーカーらしい虚無であり、文芸の実践に他ならない。それも意図にあるのだろう。だが、社会問題と個人の負い目が連接しないのなら、事態に対する受け手の没頭は期待できなくなり、社会時評は単に話に格調を加えるためのデコレーションに堕ちてしまう。