チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 『アメリカーナ』

アメリカーナ キャラに対する好悪を利用して受け手の感情を誘導して物語設計を期するとなれば、キャラの定型化に容赦がなくなるのは自然である。本書の基底にあるのは専門職の世界観であり、これが宗教に頼る人々を嫌悪する。ヒロインの母親は効能を求めて宗旨を頻繁に替える。勤務先の受付嬢は自分の教会へ来いと際限なく誘ってくる。ラスボスである元カレの妻は夫の不倫を阻止すべく教会で呪術を行っている。
 イェールで教鞭を執るヒロインの彼氏も、ジム通い・ジョギング・全粒粉・有機野菜等々とマンガのようなリベラルとして登場する。本書の立ち位置はアンチリベラルなリベラルになると思われるが、この世界観がリベラルな彼氏の偏狭な面を抽出してしまう。フランコフォンのセネガル人教授とヒロインが仲良くなると、嫉妬に駆られた男はセネガル人のフランス訛りの英語を揶揄する。差別反対デモをサボってしまったヒロインを大いに糾弾して、数日間、口を利かなくなる。
 フィクションでも現実でもいい。マンガな振る舞いを行う大人に際した場合、何か事情があると考えるのが普通だろう。フィクションが容赦のない定型化でヒールを造形すれば、後々、何らかのフォローが入るとやはり考えるものであり、そのフォロー如何が物語の達成を左右することもある。
 フィクションのかかるお約束からすれば、本書は人物の造形について割り切りすぎていて、こんなに割り切っていいのか不安になる。
 本書の専門職の価値観は、おそらく語り手の実体験に基づくのだろうが、宗教に帰依する人物の内面に深入りせず、単なる知性の欠如として解釈する。
 わたしは、少し違う解釈もできるのではと考える。それは知性のあり方の相違であって、直面する環境の様相に応じて人の行動が規制される面もあるのではないかと。専門職のような比較的意思決定に負荷のかからない環境にあれば、宗教に依拠する必要は薄くなるだろう。
 語り手もこの点について無自覚な訳ではない。
 医師であるヒロインの叔母は、専門職の価値観をヒロインと共有する人物である。彼女は”将軍”の愛人になる。彼女の専門職の世界観からすれば、他の愛人たちは通俗的で好意的に造形されない。ところが、将軍が失脚して将軍の親戚が叔母を襲撃する件になると、叔母の専門職の価値観は修羅場に対応できなくなる。逆に、蔑視した愛人仲間が甲斐性を発揮して叔母を援けてくれるのである。混乱する叔母に対して全部持ち出して家を空っぽにしろ、発電機を忘れるなと指示。ヴァンまでも調達してくれる。お約束通り定型の造形にフォローが入って、受け手を安心させてくれる。
 しかし、この手のお約束な造形フォローはここまでである。叔母の挿話は序盤を過ぎたあたりに置かれているが、これ以降、紋きりの人物に対して語り手は容易に妥協しなくなる。殊に、ラスボスたる元カレの妻は最後までラスボスである。彼女には酌量がなく、専門職の価値観からすれば完全に異質な人物とされる。ただ、終いまでラスボスたるを貫徹させることが、逆に造形フォローになっている面もある。
 ヒロインも叔母も元カレも彼氏も修羅場になれば動揺する。ところが元カレの妻だけは動じない。夫がヒロインと縒りを戻した。それを知っても動じる所がない。彼女の確信はどこからやって来るのか。そこに思い馳せたとき、異世界が異質を保ちながらフォローされるのである。