『さよならくちびる』 (2019)

 小松菜奈に求められると成田凌がヒューモラスな反応を来す。成田の反応には、われわれがギャルゲ主人公に覚える様な離人感がよく出ている。ギャルゲ主人公はわたしであるはずだ。しかしこんなかっこいい男わたしではない。
 『さよならくちびる』では成田凌=俺である。が、塩田明彦の性欲が結晶化したようなこの人物にわたしを見出すのはむつかしい。破滅型の小松菜奈が惹かれる男は悉くDVである。成田凌はDV男と戦って小松菜奈をサルベージする。こんなカッコいいのが俺であるはずがない。
 小松菜奈は白昼堂々成田の口唇を奪ってくる。何たる語り手の邪念か。何たる破廉恥か。しかし、この成田だったら小松が惚れてもおかしくはない。しかししかし、だからこそ、この成田は俺ではありえない。
 この離人感をどうするか。
 小松と成田との関係には今一つの離人感が見出される。あるいは離人感の入れ子構造がある。
 小松に求められても成田にはどうしようもない。成田の本命は門脇麦であって小松菜奈ではない。ところが、わたしには小松菜奈が本命なのであって、成田とわたしとのこのかい離こそ救いなのである。成田は小松を愛さないことで、わたしは成田の精神と分離することに成功する。成田の身体だけは借用して小松を愛することができるのだ。
 口唇を奪われた成田は不思議な反応を引き起こす。へなへなと腰砕けになってしまう。成田とわたしの分離がそこに表現されていると思う。

 成田が俺でないという離人性のほかにも、物語には嘘がある。
 門脇麦はクリーニング工場で小松菜奈を見出したわけだが、これが嘘くさい。小松菜奈がクリーニング工場で労働するとは考え難いのだ。そもそも、モブキャラに至るまで美人しかおらず塩田明彦の性欲に圧倒されるが、小松の演技に湿性の気品をもたらしているのもまた彼の性欲なのである。
 小松はジト目で成田を一瞥してまたフフンと視線を戻すような演技をする。これは自分の特権性を信じている顔である。特権性をわかってるがゆえに恋にサバサバして、成田にチュウすることができる。彼女には失敗がないのだから。
 『害虫』のサチ子も同様だったと思う。塩田は、小松とはまた別のアプローチで自分の特権性を信じている顔を彼女にさせていた。
 『恋は雨上がりのように』もそうだったが、小松に愛慕されながら成田はこれを求めないのだから、勿体ない話である。”先生”との邂逅が寸止めになる『害虫』もやはり勿体ない。では、この勿体ないからどのような物語の達成を引き出すか。
 ゴジラであるサチ子にできないことはない。選択肢がありすぎるがゆえに、彼女は自由に身を委ねて落下する。自由だからこそ自由の限度を試さずにはいらない。
 さよならくちびるは『秋刀魚の味』のような誰の恋も叶わなかった物語だ。それぞれの敗北をかかえて、彼らは最後の旅路をいく。この淡い哀切にオッサンはキュンキュンとなってしまうのだ。