守れなかった

 ニューシネマの挫折感がすきだ。殊に『いちご白書』のそれがたまらんのであるが、しかし不思議なのである。『白書』は学生運動が頓挫する話であり、講堂に立てこもった学生たちが警官隊に排除されて終わる。特に人死にが出るわけもなく、ニューシネマ基準からすれば大した挫折ではない。サイモンはもともと運動の祝祭的雰囲気に惹かれて運動に参加したのであって、事件に対する動機が薄い。さらに事件と並んで恋愛劇が同時進行する。運動が挫折したとしても恋愛は続くのだから挫折はその分減じるはずである。にもかかわらず、巨大な挫折感が去来してしまう。運動が挫折した。そこから挫折感のみが抽出され、本来関連が薄いはずの恋愛に移植される。事件と恋を「守れなかった」という悲嘆がつなぐのである。講堂から引きずり出されたサイモンが目にしたものは、警棒で打擲される恋人のリンダであった。サイモンは彼女のほうへ跳躍するが果たせない。寸前で警官隊に阻まれ、リンダに手が届かない。運動の挫折は参加者の甲斐性を薄々と疑わせる事態だろう。それが女を暴力から守れなかったという具体性へとヒートアップすることで甲斐性の欠落を克明にして、恋愛の顛末に不吉な影を投じ、恋愛の挫折の先取りとなるのだ。その際、一見して関連が薄いからこそかえって挫折に格調が生じている。
 類する様式でいえば『俺たちの勲章』は『白書』よりもさらに事件が恋に関連しない。しかしここでも事件の挫折感が関連のない恋に波及してしまう。
 中野には恋人がいてデートの点描が進行する事件の合間合間に挿入される。デートは時間経過を表す以外に役割を持たず本筋とは関係がない遠景の望遠ショットだ。しかし、最後に中野が左遷されると事件とは関連を持たなかった恋までも破綻したことを受け手は知らされる。


 別に挫折感ではないのだが、『天気の子』の「僕たちは、きっと、大丈夫だ」に引っ掛かりを覚えたのである。
 これから恋が始まろうとしているのに、既に恋の顛末を慮るような、ある意味冷めた視線がある。様々な困難を経て到達した恋だから、こういう吐露もあり得るだろう。温暖化が進行しても何とかなる。そのようなアンチリベラルの含みもあるだろう。しかし新海誠の心象に寄り添えば、「きっと大丈夫」は大丈夫ではなかった過去の恋への哀惜となるだろう。やはり社会と恋が希薄に連関するのである。ここでは逆に、個人の感傷が社会のアクチュアルな課題に波及するようにも見える。