原民喜と琴浦さん

 容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活の慣わしから、澄みきった世界のなかに呼吸づくことも身につているようだった。
『美しき死の岸に』

 昔書いたことだが、原民喜の印象は最初はすこぶる悪かった。死に瀕する妻貞恵を美化する厚顔に怖気を震ったのだった。
 ところが『永遠のみどり』まで来ると、この印象は覆った。
 原の創作を支えていた太い実家が戦災で傾き、生活力のない原は貧窮して自死を決意する。原は、今度は死にいく自分を美化し始める。妻に向けた厚顔を自分についても働かせることで彼は筋を通した、と思ったのである。
原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書) 先日、梯久美子原民喜評伝を読んでみた。
 これは自決のところから始まるのだが、形見分けの周到さにまずドン引いてしまった。自決前の原は所持品一つ一つに名札を張っている。
 自決前年に遠藤周作らと多摩川に遊ぶエピソードも気に入らない。「ぼくはね、ヒバリです。ヒバリになっていつか空に行きます」云々と自決を予告する。
 自死するならそれを最大限利用してやろう。あるいは、自死を以てどれだけ他人に自分を印象付けられるか。そういう貪婪を覚えてしまって、文士の自決は道楽だからとやかく言うのは野暮だが、どうせ死ぬなら黙って逝ってくれとイライラしてしまった。
 まあしかし、原の自死の報に際した遠藤は「貴方の死は何てきれいなんだ」とウットリするし、これが世間一般の感想で、厚顔と評するわたしのほうが余程厚顔なのであろうと少し寂しくなってしまった。
 が、評伝の後書きでは梯が、異なる文脈ではあるが、実はこの人は強靭でないかと評していて、愁眉が開いたというか、やはりそうだよなあ、と嘆じた。とともに琴浦さんを唐突に思い出した。


 琴浦さんは読心術の使い手で、しかも読み取った内容を吐露する癖がある。それでいじめられ、心神喪失した母久美子には棄てられてしまう。「お前なんか産むんじゃなかった」と去り際の久美子に言われ、それが琴浦さんのトラウマとなる。
 読めても言わなきゃいいんだが、幼い琴浦さんには自分にはどうにもならない厚顔さみたいなものがあって、いわずにはいられない。
 7話になると琴浦さんは誕生会で祝福されて「産むんじゃなかった」のカウンターがやってくる。琴浦さんは心の中の母に呼び掛ける。生まれてよかったと。
 これは琴浦さんの厚顔をよく表している場面だ。
 琴浦さんのESPで久美子はノイローゼになった。その相手に向かってこれをいうのである。かつては琴浦さん自身と久美子を傷つけた面の皮が、今度は琴浦さんを救うことになるのだ。