人格サルベージ 『おしん自立編』

 佐賀編の顛末は最初から予想がついてしまう。どんなにいじめが激しくとも、どうせ清は善人に変貌して和解するのである。
 この予断には伊東四朗の存在が大きい。
 中ボスとしておしんを苛め抜てきた伊東は、死に際になると突如善人と化しておしんと和解したのだった。橋田寿賀子らしいマンガといえばそれまでだが、やはりよろこばないわけにはいかない。
 ラスボス清もこれを踏襲するだろうと考えてしまう。しかし、これが引っ掛けなのだ。いや確かに善人にはなる。和解はやはりある。ところが、そのあり様がこちらの予想を超えてくるのだ。
 そもそも、清のいじめがエスカレーションすると、予想される清の善人化が浄化ではなくかえって戦慄をもたらすようになる。この惨状で善人に転向したとしても、それは不気味なだけで、伊東四朗のような浄化がこれで得られるのか甚だ疑問となる。
 これは実際、そうなってしまう。
 清のいじめはおしんを流産に至らしめる。ここに至り、清はようやくおしんと和解するのだが、転向の理由がひどく実利的で、流産については相変わらず良心の呵責を覚えないのである。
 おしんと同時期に清の娘も出産している。この娘は母乳が出ない。清はおしんの授乳を当てにして転向したのであり、つまり和解は清のサイコ性を浮き彫りにするイベントにしかなっていない。おまけに和解はすぐに瓦解する。
 いったい何をしたかったのか。いじめの加速にともなって清の挙動が次第におかしくなる。そこに着目したい。
 清の遣り口はたとえばこうである。
 故障で畑に出られないおしんをタダめし食いと糾弾。
 おしんが拒食するとあてつけだと非難。
 おしんはシュンとして箸をつけるのだが、それを観察する清の顔容が形容しがたい。峻厳な顔に涙が浮かんでいる。これではどちらがいじめられたかわからない。他人への叱責が同時に自分へのストレスになるような、おなじみの現象である。
 これは何か。
 演じている高森和子が田中裕子に情を移してしまって、泣きそうになったのである。しかしお芝居だから、それを堪えて無理やり怖い顔を繕うのである。
 そこにおいて高森は清の二重構造を無意識に叙述している。
 これは和解でも善人化の話でもない。サルベージの話である。清自身がかつて姑にいびられ人格を破壊されたのだった。救われるべきはおしんではなく清であって、清の古層に眠る本来の彼女をどうサルベージするか、それが問われていたのだった。
 この辺は源右衛門の件とやはり同じになってくる。
 試練編の前半でおしんは源右衛門に自分を理解してもらおうと奔走した。しかし話の課題はそこにはない。自分を理解してもらうのではなく、源右衛門を理解する話なのである。おしんは超人で最初から救う余地がない。課題の行き着き先はおしんではなく周囲にならざるを得ない。
 佐賀編の中盤以降、田倉家のパワーバランスはおしんに傾き始めていた。
 当主の大五郎はおしん派である。しかし彼は事業の失敗で家を傾け発言権を失っている。鍵となるのは長兄の福太郎であり、このひとは清に対する配慮もあって中立を保ち続けていた。だが、おしんは超人的な尽力で福太郎の心を動かしてしまう。
 このくだりは浄化著しい。
 もっとも、おしんを課題としてみるのならば、ここで話は終わっている。逆により深刻な課題を抱えるのが清である。彼女の味方がいなくなるのだ。ここにおいて、清の成熟が問われてくるのである。
 この過程で食い込んでくるのがまたしても竜三の甲斐性問題であり、それがまたいまひとつの引っ掛けになっている。竜三の甲斐性が問われていると思い込まされる。しかしそれは手段にすぎない。
 佐賀の田倉家において竜三の甲斐性は負のスパイラルを成す。
 清におしんが虐待されると竜三はおしんを庇うべく甲斐性を発揮させる。親バカの清のいじめはかえって加速する。竜三を籠絡したとおしんを難詰する。そこでおしんは庇わないでくれと竜三に請う。オスとしての自信を失った竜三は不貞腐れる。
 ここにおいて竜三の心理が問われていると考える。が、違ったのだ。問われていたのは子離れできない清の成熟だったのだ。滝造が清の元から去ると、清はかつて失った自分をようやく取り戻すのだった。