フィリップ・クローデル 『ブロデックの報告書』

沈黙の艦隊(16) (モーニングコミックス) 『沈黙の艦隊』にトロッコ問題を扱った話数がある。党首討論でアンカーが党首たちにトロッコ問題を提示する。
 10名を乗せた救命いかだが漂流中である。
 そこに1名の伝染病患者が出る。致死性である。
 あなたならどうすると問われるのである。
 不幸の総和を最小化したい功利主義に基づけば、患者を大海に突き落とす以外に道はない。その際、損なわれる正義は患者遺族への補償によって恢復されると考えられている。
 もちろん補償では故人は還らない。しかし行動生態学の知見はそれを無駄とは考えない。
 中東で自爆テロが敢行された際、実行者の家族に報酬が与えられるケースがある*1
 ヨルダン川西岸とガザは結婚難である。男は貧しくて持参金を用意できない。女はより裕福なアラブ系イスラエル人に嫁ぐ。ところが、自爆することで血縁者に報酬が与えられ彼らが結婚できるとなれば、自分の形質の幾分かを次世代の遺すことができるだろう。
 少し脱線するが、『永遠の0』の永遠とはこういう血縁選択の機微を言っているのではないか。
 あの話の最大の難関、合コン場面で特攻隊を自爆テロ呼ばわりされた三浦春馬は激昂して席を立つ。日本語話者としては三浦には同情を禁じ得ないが、図星を突かれて激昂した面もあるだろう。
 敗戦は必至である。特攻やっても無駄死である。しかし特攻を血縁選択の行動と取れば違う意味が出てくる。相手に損害を強いればそれだけ講和が有利になる。講和の条件が緩和すれば、銃後の近縁者の生存がわずかでも促進され自分の形質が遺る可能性が高まるのである。
 『沈黙』のトロッコ問題に話を戻す。
 功利主義では答えは明らかである。理屈では補償によって犠牲者の安らぎは遡及的に獲得されるだろう。しかし通俗の正義感がこれで充足するとは限らない。功利主義が是としたところで、実際に突き落とすのは相当な胆力が要る。突き落とせても、後味の悪さは相当なものだろう。正義が損なわれた感じが否めないのである。
 今回言及する『ブロデックの報告書』はこれを問題とするのだが、とりあえず沈黙の方では総理の竹上が功利主義に則り、患者を降ろせと唱える。その際、手を下すのは自分だと述べて、功利主義を損なわずして通俗的な正義の感覚を温存しようとする。突き落とした後ろめたさを自分にとどめ周囲に伝播させない方策である。
 対する民自党幹事長、海渡の答えは過激だ。曰く「皆死ね」
 素朴な同胞愛に基づく同情の急進化と取れなくもないが、通俗の正義感はこれで全うされるかもしれない。突き落とすことはないのだから、少なくとも誰も後ろめたくはならない。もはや功利主義もくそもないのであるが。
 これはある意味で正義の重さを分担する方策だといえるだろう。正義を一人で担うのは無理がある。竹上のように誰もが聖人になれるわけではない。ただ、みんなで死ぬとなると当然それを望まない人は出てきて、正義の問題が分岐しかねない。


ブロデックの報告書 『ブロデックの報告書』で提示されるトロッコ問題は以下の如くである。
 架空フランスの村が舞台である。村は架空ドイツ国境に接している。
 住人は架空フランス人であるが、国境の村ゆえにほぼ架空ドイツ系である。
 村人の一人である主人公は架空ユダヤ系である。
 村に架空ドイツ軍が侵攻。
 架空ナチスの将校が村人に要求する。架空ユダヤ系住民を差し出せ。さもなくば村を焼くと。
 本作では『沈黙』と同じ手順で功利主義と通俗の正義感を両立させようとする。手を汚す人物が一人現れ、主人公を架空ナチスに売ってしまう。
 主人公は架空ビルケナウに送られ死ぬ思いをする。
 生還して帰村した彼には補償として福祉らしきものが与えらているように見える。
 功利主義は全うされたが、密告者は後ろめたさに耐えかねて自決。
 戦後、何年も経てトリックスター的人物が村に闖入してくる。この道化者は村人の犯罪を暴き出して糾弾を始める。村人は出ていくよう脅すが、挑発をやめない。それでナニされるという話だが、どうだろうか。
 主人公を売ることで正義は損なわれた。しかしより悪いのは村人に選択を強いた架空ナチスであって、村人の行動は緊急避難に準じると解釈できるのではないか。
 トラウマを掘り返されて激昂するように、正義が損なわれた感覚が村人を苦しめている。そして主人公には補償がなされている。
 民族浄化を糾弾するならばナチハンターをやるのが筋であろう。だがその胆力はないから手軽な方法に走り、村の微妙な正義の均衡が破られ皆不幸に落ちてしまった。そう見えてしまうから、わたしはどうしても村人の方に移入してしまう。あるいは庶民的なるものたいする作者の嫌悪を見てしまった。
 物語論的にも主人公の正義に傾斜すれば問題が出てくる。
 ただ人をひどい目に遭わせても文芸という現象が立ち現れるわけではない。たとえば、正義が損なわれた感覚が必要だ。
 主人公には何の後ろめたいところはない。しかし村人は後ろめたい。正義を損なったからだ。この際、どちらが文芸的観察の対象として適しているか明白だろう。
 村人はどうすればよかったのか。
 村を焼かれればよかった。そうすれば、後ろめたくなることはなかっただろう。沈黙のトロッコ問題でいえば海渡の方策であり、事実上、作者はそれを要求している。しかし酷だろう。

*1:この話の出典は忘失した。すまん