単身者にとっては恐怖映画であろう。四十路半ばの単身オッサン(エディ・マーサン)は民生委員である。彼は日々、孤独死の後始末をやっている。このままいけば自分も彼らの仲間入りである。
受け手が単身者ならば一刻も早くこの恐怖から逃れたいはずだ。映画もそれに応えるのである。作中、孤立を受容する技術に次々と言及がある。
だが、そこをつけ込まれるのだ。
受容できると受け手を安心させることで誤誘導が行われる。本当に語りたいことから目をそらされる。受け手の焦燥がまんまと利用されるのである。
この映画、語り手が南欧人だからか、UK食の粗末さに自覚がある。紅茶にトーストとツナ缶を組み合わせるあのセンスには見るたびにギョッとさせられるが、それとともに、いかなる機序を以ってしたら、エディ・マーサンのテントウ虫のような体躯をこの食餌が養え得ているのか、疑問に苛まれる。基本的にオッサンの生態観察であるこの話は、死に抗すべく肉体の物質的ありように固執する。
映画は物に魂が宿ると信仰する。オッサンは死んだ住人らの遺留物に執着する。几帳面な単身者という類型で叙述される彼は、ルーティンによってカオスを克服しようとしている。単身でも正気を保てる。正気のまま死ねると信じている。後半に彼は自分のロールモデルと出会うことになる。そこでこの形式主義と物神論を邂逅させるのが、悪夢のようなUK食なのだ。
老人ホームに退役軍人を訪ねたオッサンはその矍鑠とした様子に感激を隠せない。足音だけでオッサンの来訪を老人は感知する。部屋隅のテーブルには紅茶、ツナ缶、トーストがナプキンの上にセッティング。彼は老人になった自分と出会ったのだ。軍隊生活という秩序が孤立に勝利したのだった。
と、わたしもオッサンとともに安堵を覚えるのだったが、これで話が終わるわけはない。この後、オッサンはスケコマシに走ったりと紆余曲折した後に遭難。これはこれで救いでもあって、一思いにナニしたのだから、単身のまま衰えていくという真綿で首を絞められるような恐怖から逃れ得たのである。また、死者に散々尽くしたうえでのアレである。自己犠牲の意味合いがオッサンの末路を意義深くする。ところが、こうやって恐怖を散らされるうちに、われわれはゆでガエルにされていたのである。無縁仏のオッサンは誰の見送りもなく埋葬される。ラストカット、墓石すらないオッサンの無縁塚に単体のナニがやってくるのだ。
これはもうとんでもない俗謡調だから、何たることかと慄いていると単体どころの話ではなくなる。次々とナニがオッサンの許に集うのである。
こんなリリカルに屈するのは我慢がならん。しかし、しかし...
孤立を受容する技術の話ではなかったのだった。これまで取り上げた話で謂えば、『ハロー!?ゴースト』(2010)や『くちびるに歌を』(2015)に類する観測されていた孤独の話だったのだ。オッサンは孤立していなかった。常に観測されていた。その善業はお天道様の御覧ずるところだったのだ。
この類型はむつかしい。見守りを男の周りに配置しつつも、それが見守と気づかせないような誤誘導を仕込まねばならない。オッサンの生体へ執着することで、この話はわれわれの視線を逸らしたのである。
ナニが一人訪れるのは俗謡である。それが群れ成すのなら、俗謡は突き抜け、もはや別の代物だ。だが、こちらとしては惰性で俗謡のつもりでいるから、リリカルへの強がりというまことに甘美な玩弄に襲われる。しかし、このイヤイヤには裏がある。
本当はわかっていたのだ。対処療法ではどうにもならない。形式主義は何の役にも立たない。このリリカルに動じることで、どれだけ自分が助けを求めているのか、知らされることになる。それは正視に耐えるものではなかったのだった。