『舟を編む』(2013)

 これほど捻りのない邪念も珍しい。下宿屋に大家の孫娘が越してくる。それが宮﨑あおいなのである。院卒アスペルガー松田龍平は逆上せあがって告る。ふたりは入籍。完、である。これは何なのか戸惑うほかはないが、しかしというか、やはりというか、通底に不穏も見えてくる。
 松田龍平は相変わらずサイコである。彼がおのれのアスペとどう向き合うか。それが課題とされるが、アスペというよりはサイコであるから、それこそすぐに宮﨑と番になってしまえるように、この人には最初から課題がない。宮﨑も同様で、やはりどこかしらサイコであり、受け手が自分を投影できる余地に欠ける。したがって課題は彼らの周縁にいる人々に担われる。 オダギリジョー黒木華である。
 それはイルポスティーノ的といえばいいか。俗謡調の未開人が文明に感化されるような知的権威賛歌である。松田がオダギリの反知性の世界を理解したように見える。しかし、下宿屋で初めて松田に認められて感涙してしてしまうのはオダギリの方である。オダギリと松田龍平が分かり合えるのは松田の担う知的権威の賜物なのだ。松田の成長ではなくオダギリのそれが問題とされていた。これが下宿屋の場面で判然となる。
 オダギリの件は山田洋次のインテリ観に通じるものがある。寅の対極には博父の志村喬を頂点にしたインテリ軍団が控える。寅はこのインテリ群と交流できる。彼には感化という徳目があるからだ。これは知的権威が階級を越境できるという信仰の裏返しである。
 『舟を編む』に話を戻すと、邪念は文系の性愛を目指したものではなかったのである。知的権威の礼賛にあったのだった。しかも保留付きである。オダギリも黒木も知的権威に屈した。しかし宮﨑あおいにはこれが通じない。くずし字で恋文を送られた彼女は松田に激怒してしまう。松田の真の課題がおぼろげながら見えてくる。
 宮﨑にも課題がある。アニメ声の魔性で知的権威が屈する。これが彼女の世界観であり、その間接的表現として病魔に侵されるが加藤剛である。しかし、これは『散歩する侵略者』で踏襲されることになるが、アニメ声がサイコ松田に通じない。通じたはずではあるが、サイコ(ダイコン?)なので態度が変わらない。
 このふたりは10年以上夫婦をやることになる。ところが、夫婦という感じがしない。いつまでたっても余所余所しく、サイコ同士を番わせてみる実験が不穏を醸し受け手に緊張を強いる。宮﨑自身もサイコだからこの不穏を気にしないように見える。しかしラストでついに本音を漏らすのである。ああ、この後、岡田准〇に...はネタであるが、そう思わせてしまう気味の悪さがあった。