『ラストレター』(2020)

 終わった恋に呪縛される男はいる。聖化した女にいつまでも引きずられる現象は、本作も含めしばしばフィクションの題材になる。が、これの実作を試みると固有の難しさに気づかされる。メソメソする男の叙述はよいとして、問題は女の方である。聖化するほど男を狂わせたのだから、さぞかし飛びっきりの女であるはずだ。しかし聖化するほど飛びっきりとは具体的にいかなる姿態なのか。聖化に見合う女の造形とは何なのか。これを考えてしまうと我に返りかねない。果たして彼女は聖化に値する女だったのか?


 福山雅治広瀬すずに棄てられる物語である。広瀬は福山ではなくトヨエツを選び結婚する。広瀬を聖化する福山には未練が残る。広瀬の死後、福山はトヨエツと再会する。これがトヨエツの初出の場面なのだが、そこで受け手は焦らしに焦らされる。広瀬は娘ともども夫にDVされ自裁している。その男に福山が会いに行くというのだから、どんな男なのか興味が惹かれる。ところが実際に福山が男と対面しても画面に男の姿をなかなか入れてくれない。それで、やっとフレームインしたら正体はトヨエツで館内爆笑。わたしは『インターステラー』のマン博士を思い出した。冷凍睡眠から覚めて出てきたのはジミー大西というアレ。
 トヨエツは広瀬を回想してこう評する。「中身のない女だった」と。回想の広瀬はおぞましいくらいの美女なので若き日の福山がクラクラするのは無理もない。しかし回想で詳細に造形が叙述されるのは妹の森七菜の方で、むしろわたしとしては情報豊かな分こちらの方に余程キュンキュンした。広瀬は唯でさえ描写が少ない上にオドオドしがちである。この人は生徒会長なのだが仕事ができる感じがしない。容貌以外に聖化に値する要素が見当たらない。トヨエツの「中身がない」発言が裏付けられてしまう。
 高校卒業後、福山は広瀬と付き合うことになる。大学時代の回想は一切ない。トヨエツと結婚してDVされる件に至っては、広瀬は聖化されるどころかむしろ逆である。
 広瀬に棄てられた後、福山は未練たらしく広瀬との恋を小説にする。チェーホフによれば、小説を書くことには罪はなくてそれを人に読ませるのがいかんのだという。福山は、自分がどれだけ想っていたか延々と連ねた文章を手紙で随時、今はトヨエツの女となった広瀬に送り付けるという割と最低のことをやる。
 これは普通、女がキモがって終わるところだが、そこは岩井俊二劇場でトヨエツにDVを受ける中、広瀬は福山からの手紙を宝物のようにしていたと最後に判明して作者の邪念が爆発する。母ともどもDVされていた娘の広瀬(二役)はトヨエツの手紙を読み、いつかこの人が迎えに来ると確信する。
 わたしには嫌な感じがした。
 福山を棄てた広瀬の行動に非難の謂れはない。広瀬は福山をダメな人と察して見限った。確かに現在の福山はダメな人の部類に入るだろう。トヨエツも劇中でそれに言及する。しかし、より見込みがあると感じたトヨエツの方がはるかに地雷であり、広瀬は選択を誤ったのだった。それで、かつて捨てた男が迎えに来るとは、娘の発言ではあるが、どうなのだろうか。
 DV被害者をネガティヴな人物と思わせてしまうこの話の倫理観には疑問の余地がある。わたしには本作を含め岩井作品に悪い印象はないのだが、このひとは時々、これはどうかと思うことを劇中の人物にやらせる。
 本作で謂えば、他人の家のポストを躊躇なくゴソゴソやってしまう福山にはドン引く。死んだ母を偽って福山の手紙に返事を出すのは人の想いを土足で踏みにじることになりかねないと思うが、広瀬は嬉々としてそれをやる。託された姉宛ての手紙を渡さない森七菜もあんまりである。他の作品で謂えば『リリイ・シュシュのすべて』の沖縄観がすごすぎる。
 と、広瀬の行動についてみれば、話の倫理観に引っ掛かりを覚えるのだが、その広瀬にも福山に未練があったとすれば、これはもうオッサン向けポルノである。いや、ポルノはポルノでいいのだが、ポルノであろうとするほど、つまり広瀬にも未練があったとするほど、ポルノではなくなってしまう。それでは広瀬が虫のよいダメな人になってしまい、もはや聖化に値しなくなる。
 ここにおいて話の目論見が見えたように思う。福山の未練を克明に辿るほど広瀬はかえって俗化されて、福山はようやく広瀬から解放されるのである。


 わたしは改めて『秒速』の異常さを指摘せざるを得ない。秒速は逆である。解放されたはずの主人公がますます病的に見えて来る。
 聖化された女の具体的叙述をどうするか。この問題に戻ろう。
 先に検討したおしんの完結編を思い出したい。如何なる行動をさせればその女を聖化できるか、橋田寿賀子の手管は縦横無尽である。しかし、聖人のありさまを具体的に叙述した先にあったのが、聖人の面の皮であった。具体的に叙述されたら俗化せざるを得ないのである。しかし魅力が克明でなければ、聖化の理由がわからない。造形の情報開示のさじ加減が必要で、聖化のためには男を呪縛した一瞬を補足せねばならない。それが、待合室にいた明里の亡霊のような姿なのである*1
 これは恐怖映画のレイアウトなのだが、作者が無意識にホラーだと把握した結果である。行動生態学的に”不自然”なのだから男は未練から解放されるのがフィクションの常套である。そうでないとすればジャンル的にはホラーとなる他あるまい。