『七つの会議』(2019)

 いつもは大和田と抗争する半沢の傍らでヘラヘラとしていた及川が今作でついに当事者となって香川照之に激詰めされるのである。一種のホラーであり及川も期待通りのストレスフルな反応で沸かせる。が、やはり及川というべきか、この人、半沢とは違った意味で頑丈なのである。サイコである堺雅人にストレスの概念はない。及川は及川で天然の壁でストレスに対抗する。営業成績を激詰めされるのは親会社の尻ぬぐいのとばっちりとされるが、一方で及川が仕事をする場面が出てこない。香川にあれほど激詰めされているのに、彼は職場を放置して探偵ごっこに勤しむ。営業のくせにやっていることが『半沢』と変わらない。これでは営業成績を叱責する香川の対応がそこまで不条理ではなくなる。この誘導は半ば意図的であると思う。
 それで及川のこの厚顔が野村萬斎のそれとぶつかるわけである。野村は深作映画の錦之介のようなもので、全編、旧劇の芝居をひとりつらぬく。どこから見ても頭のおかしな人で、旧劇全開で芝居をするたびに誰か止めなかったのかと嫌悪を覚えざるを得ない。したがって、野村のこの面の皮を及川の皮が追い詰める趣向は小気味よい。このふたりが面と向かって芝居をやると文法がまるで異なるから、見てる方こっちの頭がおかしくなりそうだ。いずれにせよストレス耐性の高い彼らは常人ではない。では普通の人とはだれか。本作は、野村でも及川でもない普通の人、香川照之の物語である。


 香川を黒幕にしたがるキャスティングの風潮がわたしにはわかならい。『SP』で幹事長をやった彼は如何にも普通の人が無理をしている感じで痛々しかった。『半沢』の大和田も相手がサイコパス堺とあっては、いじめにしか見えない。
 『七つの会議』は香川の被虐的な体質を自覚していて、野村はサイコだから鹿賀丈史の激詰めを気にしない。香川はそうはいかない。普通の人だからこそ被ることになったストレスを物語は何よりも重く見る。問題はそれをどう救済するかである。
 黒幕を演じるとき、無理に応じて香川は挙措を泥臭く誇張する。わたしはそのくどさがだんだん嫌になってきたのだが、本作では、後日談に香川の特異な肉体が文脈から剥離する場面が出てくる。バラ園で怒り狂いながらバラを食い散らかす香川。発狂かと思わせるが、朝倉あきのナレーションがこの絵の後に来るのが効いていて、香川は親のバラ園を継いで食用バラの開発を試みていたのであった。特異な肉体が特異なまま無理なく筋に組み込まれることで、彼の救済が描かれるのである。


 旧劇の芝居といえば先週の『半沢』である。役員会で謝罪を強いられた猿之助が『風林火山』以来の顔芸で沸かせる。溜飲が下がる場面のはずだが、これを目撃した香川の反応が話を喜劇にとどめない。香川は自分を裏切った猿之助の凋落を喜びたいはずだ。しかし猿之助の姿に涙してしまう。かつての自分をそこに見ないわけにはいかないのだ。
 喜劇は宮仕えの悲哀へと急転直下する。普通の人だからこそ、どうしてそこまで頑張るのかという文芸現象の問いを香川は知覚できたのである。