『来る』(2018)

 主人公の交代劇がどうにも受容し難い。 妻夫木聡の闇と哀しみはともかくとして、岡田准一小松菜奈がわからない。この二人は何かにクヨクヨしているのだがその内容に乗れない。岡田は妻に中絶を強いて離婚している。なぜ彼が中絶に強いたのか説明は抽象的である。小松には姉コンプレックスがあるが、いずれもそんなに大仰に悩むことかと思わせてしまう。
 オカルト版『シン・ゴジラ』という評がある。確かにそんな感じがする。シンゴジのインフラ業界賛歌には虚業者の後ろめたさを煽るものがあった。『来る』では除霊師たちの死体の山の上で岡田と小松は疑似家族となる。オカルトであるこの話では除霊師たちは実業者の最たるものである。対して岡田はライターで小松はキャバ嬢である。虚業者であり、いてもいなくてもかまわない。彼ら虚業者の平和が実業者の尽力で保たれるのは『シン・ゴジラ』的であるし、あるいはクリストファー・マッカリー的といえばいいか。今、マッカリーのwikiを読んで初めて彼が警官志望だと知った。だから『アウトロー』や『フォールアウト』の結末はああなのか。


ゴルギアス (岩波文庫) ということで、シンゴジという連想はそうなんだけど、わたしはプラトンゴルギアス問題を思い出した。ゴルギアスソフィストソクラテスにdisられた人である。ソクラテスはとにかく弁論家という職業を嫌う。曰く、画家は靴を描写できるが靴職人とは違い実物を作れない。弁論家は医術を論じるが臨床には役立たない。劇中の岡田はライターである。弁論家の一種である。岡田当人の職業は役者である。虚業の最底辺にある業種である、役者はさまざまな専門家を演じるが演じるだけで専門家ではない。俳優としての岡田准一は何でもやろうとする。何者でもないからだ。何者でもないから観察に値する中身が出てこない。ここに至り松たか子に対する小松菜奈の羨望がようやく理解されるのである。


 わたしは現場猫の職人がすきだ。要は職人が好きなのだが、どういう挙措がその人を職人にみせるのか、その実例に溢れるのである。
 わたしにとって本作でもっともかっこいい人たちは新幹線で上京中の除霊師オッサン四人組であった。見た目普通のこのオッサンらは、車内で危機を察するや、死を見ること帰するが如き泰然さで行動を起こすのである。普通のオッサンがスーパー職人という類型にわたしは弱い。
かかる軍人ありき (1979年) と、ここで最後に思い出されたのが伊藤桂一『かかる軍人ありき』で、これはスーパー兵隊たちオムニバス戦記であり、どの話にも後日談として帰郷後の日常に言及があるのがいい。温習のスーパー挺身隊のスーパー隊長は広島で劇場の支配人をやっている。副官のスーパー軍曹は洋服店主である。市井のどこにでもいそうなオッサンが実はブロンソンでありリー・マーヴィンであるような、この世界観がたまらんのである。