「スタイルズ荘の怪事件」『名探偵ポワロ』

 ヘイスティングズはダメな大人である。ベルギーでポワロと知り合って感化された彼は復員したら探偵になりたいと目をキラキラさせる。しかし才能がない。ポワロに弟子入りしたものの、貴方の推理にはいつも驚かされると嫌味を言われる始末である。ヘイスティングズの推理が毎回斜め上を行くのは仕方のないことで、受け手を誤誘導するべく作者が彼を抜け作にするのである。
 探偵の才能でいえば、秘書であるミス・レモンの方が余程有能なのだが、これがまた難物である。ミス・レモンはオッサンらの未成熟な挙措を目にしては顔をニッコニコにする。これがいけない
 わたしはオッサン観察のつもりで『名探偵ポワロ』を毎週楽しみにしている。筋などもはやどうでもよく、ポワロが散髪して背広を誂え香水を買い求めたり、あるいはポワロ&ヘイスティングズジャップ警部が公園を散歩して茶をしばきディナーを共にする模様を眺めたいだけである。ところがミス・レモンがあらあらうふふライクな母性を発露するたびにわたしは彼女へ思慕を強いられ、オッサン観察が落ち着かなくなる。ポワロとヘイスティングズの関係はともすればホモソーシャルになりかねない。ミス・レモンは彼らの濃厚な関係に打ち込まれた楔なのだ。


 ヘイスティングズは恋多き男である。シリーズ一作目「スタイルズ荘の怪事件」でもその性質はいかんなく発露される。
 時はWWI。負傷して帰国したヘイスティングズは旧友の招きでスタイルズ荘を訪れる。その道すがら、近所の美しい人妻とすれ違うや早速ニッコニコになるヘイスティングズ。彼の恋愛体質はミス・レモンと同じくヘテロアピールの一種である。現代アメリカ映画のごとく、『名探偵ポワロ』はポワロもヘイスティングズもゲイではないと事あるごとにアピールする。
 スタイルズ荘に滞在を開始したヘイスティングズは屋敷に居候する娘に惚れてしまい求愛行動に取り掛かる。しかし折角の語り手の努力もヘイスティングズ自身が台無しにしてしまう。スタイルズ荘の近所にはベルギーから亡命してきたポワロも滞在していて、雑貨屋で偶然再会した彼らの盛り上がり様でヘテロアピールは灰燼に帰すのである。異性よりも再会したポワロの方に余程盛り上がってしまうヘイスティングズ。手を握り合うふたり。「もなみ~もなみ~」と感涙するポワロ。この有様ではヘイスティングズの恋はうまくいくはずがない。


 ヘイスティングズの失恋で幕を閉じる「スタイルズ荘」の結末はかなしい。娘の思わせぶりな態度を完全に誤解したヘイスティングズは求婚してしまう。しかし冗談はよしてと女は取り合わない。女には別に婚約者がいるがヘイスティングズは気が付けない。
 事件が解決してスタイルズ荘を去ろうとする失意のヘイスティングズがポワロに訴える。
 「僕には女性がわからない」
 「元気を出しなさいモナミ」とポワロは慰める。曰く「そのうちこのろくでもない戦争が終わったらまた一緒に仕事をしましょう。このポワロが色々教えて上げますよ」
 「このろくでもない戦争」は戦争を他の事態に言いかえることで「スタイルズ荘」を時代を問わない社会時評にする。同時に、頭の弱さゆえに失恋した男の憐れが戦争という語で装飾されることで、ヘイスティングズという人間に新たな解釈が生じてくる。
 ヘイスティングズがシェルショックを患うさまが劇中で二度出てくる。頭の弱さは生来のものでなく、彼は戦争で廃人になったのではないか。『名探偵ポワロ』はポワロの介助によってヘイスティングズ人間性を取り戻す物語なのである。