『灼熱の魂』(2010) Incendies

 オイディプスを踏襲するにせよ何らかの変異を施さねば踏襲の意味がない。CASSHERNハムレットというよりもオイディプスだと思うのだが、当事者の自覚の揺らぎにオリジナリティがある。行為に際しオイディプスもイオカステも互いに面識がない。CASSHERNはそれを自覚的にやった後に記憶を失う。行為に自覚があった分、事の判明に際してはCASSHERNの方が業深くなるだろう。


 本作はごく早い段階から明確にオイディプスを踏襲すると宣言する。棄てねばならぬ赤子のくるぶしに墨を入れる場面が早々に出てきてしまう。したがって母親が牢獄でレイプされてしまうと、相手はとうぜんこの赤子だろう思ってしまう。実際そうである。しかし、敢えて宣言して先読みさせる理由はある。本作もソポクレスに改変を加えてくる。かかる変異に気づかせないためにこそ、忠実な踏襲であると宣言するのだ。

 CASSHERNと同じように物語は自覚の有様を変えている。ソポクレスの踏襲ならば近親姦の際、ふたりには互いの面識が欠けるはずである。本作もそう思わせるのだが、オチで母親には自覚があったと判明する。くるぶしの入れ墨を認めたのであり、入れ墨は踏襲の証ではなく変異のきっかけだったのである。しかし真の爆弾は他にある。CASSHERNと同様に行為に際して自覚があったのだからソポクレスよりも業は深化するはずだ。ところがおかしな流れになる。

 母は子を探し求めていた。それが見つかったのである。強姦という形にせよ牢獄の中にあって息子が傍にいてくれるのである。自覚の改変がバリエーションだったと思わせることすら誤誘導であって、真の変異は事を業から安らぎへと読み替えることにあったのである。