『半沢直樹』(2020)

 半沢という人は超人あるいはサイコであって、彼固有の属性に由来する悩みがない。たとえ悩みに襲われても状況依存的でその場限りでのものである。彼には負い目がないのだ。普通の人である大和田の方が観察対象としての価値はよほど高いだろう。しかし彼は彼で当事者性に欠けてしまう。では、負い目とその克服という観点からすれば『半沢直樹』(2020)は誰の物語となるか。それは、柄本明の抑圧下にあって人間疎外に陥った白井大臣が自分の中に勇気を発見する物語となるはずだ。前に挙げた例でいうなら『スーパーの女』(1996)のパートさんたちである。また本来の自分に立ち返ったとみるならば貴種流離譚のような感じにもなる。彼女はノーブルな気概に目覚めたのであり、柄本に土下座を強要する蔑みの目には性癖的にゾクゾクせざるをえん。白井大臣を善玉にした原作からの改変はまことに正しいと思う。
 好みをいえば柄本が小物化してしまうのは残念であった。覚醒した白井大臣に彼はヒッとするのではなく、小娘が成長したワイ的な微笑を泰然として浮かべてほしいのである。土下座も一瞬で終わらせず、ワシが本物の土下座を見せてやろうと言わんばかりにじっくりと頭をつけて堂々と退場してほしいのだった。


 先述したように『七つの会議』(2019)では渡真利が当事者となってしまい大和田にドヤされる。非当事者へのかかる憎悪は片岡愛之助にも働いていて、殊に半沢(2020)踏まえた今となっては愛之助が好きで好きでたまらなくなっているから、遡及的に『会議』の彼の顛末がつらくなってしまう。
 今回善玉になってしまった大和田は『会議』の作中でも類似の経過をたどるから、『会議』の彼は半沢(2013)と(2020)をつなぐよき媒介となったのではないか。
 対照的に困ったのが北大路である。『会議』のこの人は外貌も挙措も中野渡そのままであり、それがアレという顛末だからつらい。半沢(2013)を踏まえた誤誘導が効くのである。ところが今度は『会議』を踏まえた上で2020年版を見てしまうと中野渡がどんなに善行やっても裏があるんではと疑ってしまうのである。これには最後まで落ち着かなくさせられた。