三人称に到達する

 映画で視点にしたい人物がいれば排他的に彼をフレームの中に入れればいい*1。ダイアローグで台詞を受けている人物のバストになれば、われわれは台詞を受け止める彼の心象に否応なく引き込まれるだろう。では、対峙する二人が平等に画面を分かつとなるとなれば、誰の心象を示すことになるのか。上手下手の問題は措くとして、それは三人称であり二人の感傷が総合された何事かを受け手は体験することになるだろう。映画には空間的に事態を把握できる利点があり、複数の人物の感傷をパラレルに捕捉できるのである。他方でテクストでこの効果を出すにはどうすればよいか。シリアルでしか事態を追えないテクストで複数人の感傷をパラレルに把握する方法はあるのか。
 
 『秒速』の One more time, One more chance には文法の禁忌を冒している箇所がある*2。この歌の詩は明確にタカキの心象を焦点化している。そこに花苗の心象も潜り込んでくるのだがこれはまだ許せる。ところが楽曲中に明里の視点が挿入された途端、感傷の管理は破綻する。One more time は明里の感傷を謳わない。そもそも明里には内面が存在しない。あるかもしれないがタカキ(語り手)にはわからない。ただ、自分にはわからないという自覚もある。
 『秒速』はわからないものをわらないまま叙述しようとした物語である。タカキ少年はそれをボーバクとした時間と表現した*3。究極的には明里の内面のことであり、模索されたのは明里の内面を不定のまま叙述する方法である。物語の出した答えは三人称への到達であった。あくまでタカキ(時に花苗)の一人称だった話がラストの無人となった踏切で三人称に到達するのだ*4。あえて二人を画面に入れないことで彼らの感傷がパラレルに把握される。踏切が二人を見ていた。つまり無生物に視点を担わせることで二人の感傷が混在した何かに受け手は立ち会うのであり、結果的にわれわれは明里の感傷に到達することになる。One more time の視点混乱は不可欠な過程だったといえるだろう。


くだまき男の飽き足らん生活 先日 play music から YouTube Music へ移転した際、リスト整理のついでにガガガSPのアルバムを全部聴く蛮行をおこなった。わたしは4th以降は全く追っていなかった。わたしの知らないこの20年、彼らは相変わらず男の未練を叫び続けていて色々と嘆じるところがあったのだが『くだまき男の飽き足らん生活』(2013)までくるとさすがに作風が変わってくる*5
 ガガガSPの詩は一人称が基本である。過去の失恋を自分はどう考えるか。あの時自分は何を考えたか等々が叙述される。ところがこのアルバムの「カゲロウ橋」は一人称で始まりながら途中で三人称視点が挿入される。サビの詩である。

カゲロウ橋は覚えている君の鼻歌

 第三者に二人を観察させるだけでは必ずしも三人称には到達しない。視点が今度は第三者の感傷に汚染される恐れがある。無生物が視点を担う理由はここにある。
 一人称が三人称に到達する話としては『続・男はつらいよ』も検討されていい*6。マドンナの佐藤オリエは秒速の明里のように内面不明のヒロインである。その彼女によって最後に寅が観察されることで物語は三人称を獲得する。内面不明ゆえに佐藤オリエの視点は無生物に準じるのである。


 『くだまき男の飽き足らん生活』では「カゲロウ橋」だけでなく「君がなくなっても」(詩:桑原康伸)でもやはり視点の遊動が認められる。Bメロで「独りよがりの恋を越える」という一人称の克服が謳われるから、視点の揺らぎは自覚的なのだろう。ではどうやって一人称を越えるのか。最後のサビにこういう詩が出てくる。

君の意識がなくなっても僕はわかるだろう

 この詩は二重にとれなくもない。意識のなくなったとしても女は男を識別するだろうと解せば、男の一人称でありながら視点は女にある程度は寄り添うことになる。しかし違い解釈もできる。女が自分の感情を訴える手段を失ったとしても男は女の気持ちを把握しうる。こう解釈すると視点は男へ傾斜する。ダブルミーニングによってシリアルなテクストが二人の感傷をパラレルに捕捉したのである。