『判決、ふたつの希望』 L'insulte (2017)

 自動車修理工のオッサンが土方の現場監督でパレスチナ難民のオッサンにヘイトをやる。激昂した難民のオッサンは暴力に及び修理工のオッサンに訴えられる。
 話の冒頭に修理工のオッサンが客をたしなめる場面がある。非純正のブレーキパッドを使ってトラブった客にオッサンはドイツの正規品を使えという。
 別の場面では現場監督のオッサンがクライアントに疎まれる。ドイツ製の資材に拘るオッサンはもっと廉価な製品を使うよう要求される。オッサンは拒む。
 法廷でドイツの資材の話が出たとき、修理工のオッサンは共感を覚えてしまう。二人が官邸に呼び出され説教を喰らった帰り、パレスチナのオッサンの車がエンストしてしまう。修理工のオッサンは助けずにはいられない。ヘイトはあっても職人の道徳が放置を許さないのである。
 事態の解決策について作者の回答は明らかだろう。商人や職人の気概が地縁、血縁、身分、信条の違いを克服するとき、われわれは近代を目撃していることになる。近代化以外に解決がないと話は訴えるのである。と同時に、物語は事件について文芸的な評価も試みる。
 法廷で難民のオッサンは問われる。ヘイトに激昂して暴行に及んだのかと。オッサンはヘイト被害を認めない。認めた方が有利になるにもかかわらず。これは何なのか。
 
華麗なる一族(上) (新潮文庫)
 先日、原作の『華麗なる一族』を読んで、山本薩夫の映画版との違いに気づかされた。山崎豊子が仕込んでいた文芸的な事態が薩夫版から脱落しているのである。
 原作は橋田寿賀子的というか、オスであることのつらさが重大なモチーフとなっている。
 銀平の妻満樹子は学生の頃にイケメンの学生スキーヤー尾形と付き合っていた。ところが尾形が一流企業の就職試験に失敗し、二流の食品会社に就職すると「スキー場で学生スキーヤーとして衆目を集めていた尾形が、俄かに、凡庸な小市民的な人間に見え、さらに二人の経済的環境の違いも加わって、次第に齟齬を来たしはじめる」のだった。
 『華麗なる一族』は大介が長男の鉄平を犠牲にして野望を遂げる話であるが、薩夫版には大介の動機にモヤモヤしたところがあった。商人のエートスは血縁を否定するから大介が鉄平に冷たいのは理屈にかなうように見える。ところが、大介をただの冷酷漢にしたくないために、大介が鉄平の出自に疑惑を持つ設定がある。血縁が薄いゆえに大介は鉄平を利用できたのである。つまり、大介は血縁に執着する人であって、これが大介の商人の気概と矛盾を起こし、どうしてそこまで血にこだわるのか薩夫版は明瞭さに欠くきらいがある。
 山崎豊子は男性性の問題を大介の動機に適用してこれを合理化する。出自の疑惑に感づいた鉄平は大介に詰め寄る。自分は本当の息子なのかと。絶句する大介に対して山崎はこうコメントする。妻の不倫の事実を認めれば、男としての自分の不様さを認めることになると。妻を寝取られたというオス性の喪失と大介は直面したくなかったのである。
 薩夫版ではこの場面がものすごい修羅場になっているのだが、大介がオス性の喪失に苦しむというよりも妻の不倫を詰る印象の方が強い。オスである薩夫にとってオスであることのつらさは自然すぎるゆえに前景化しない。むしろそれは単純な話であって、がんばるしか安らぎはないのだが、がんばりさえすれば済む話なのである。


 ヘイト被害を認めたくないパレスチナのオッサンにも大介と同じ苦悶が認められるだろう。認めてしまえばオス性の喪失と直面するとオッサンは危惧したのである。オッサンは難民であること、つまり敗戦して故郷を追われる事態をオス性の喪失と捉え苦しんでいたのであって、ここで初めてモダナイゼーションがオス性の問題と連結する。では負けないためにどうすれば、という問題意識が出てくるのである。