奉仕の放散と循環 『ルパン三世 カリオストロの城』

 トラブルを抱えたヒロインに奉仕する点では、カリオストロのルパンはジェームズ・ボンドに近い。しかしボンドガールへの奉仕には下心がある。カリオストロのルパンにはこれがない。性欲のないボンドがヒロインに奉仕するのだから話は自然気持ち悪くなる。
 この文章を書くにあたって今回、カリオストロを見返してみた。ヒロインを造形する遣り口にはやはり感心した。ルパンとクラリスが邂逅する場面である。失神したルパンの額をクラリスは冷やしたい。では何を使って冷やすか。これに対する彼女の問題解決行動が台詞を一切介在させずにクラリスという人物を説明してしまう。如何なる挙措をさせればヒロインが好ましく見えるか、という問題意識が伝わってくるのである。
 しかし話はここから20分ほど停滞して構成上の難点となってしまう。ルパンとクラリスの因縁を作者は隠そうとするから映画の視点がルパンから脱落し、感傷に浸るルパンを次元が長々と観測する事態が生じる。ヒロインへの奉仕を性欲抜きに正当化するために苦悶の時間が流れるのである。そもそも今回のルパンとクラリスとの邂逅自体が偶然に過ぎなかったのだった。
 性欲がない代わりにクラリスへの奉仕は重奏的な構造を持っている。ルパンだけではなく不二子も銭形も皆が寄ってたかってクラリスに奉仕する。中でも銭形はルパンよりも円滑にクラリスへの奉仕に巻き込まれていて、ルパンの動機の薄さを補完している。銭形は、正義の断念という作中でもっとも観測に値する課題を抱えている。これが奉仕と連動した時点で主人公は銭形へ半ば移行したといってよいが、この視点移行は重要である。
 あの終盤でカリオストロ奉仕者の物語の最終課題に到達している。ボンドやルパンはヒロインに奉仕した。では奉仕をした彼らには何の報いがあるのか。クラリスと別れを告げるのはルパンの視点である。ルパンが立ち去ると彼を追ってきた銭形の視点となる。彼はクラリスに向かってルパンが彼女に奉仕をした(心を奪った)と告げる。つまり自分はルパンの尽力を見ていたと言明する。
 埼玉県警一行が立ち去った後、最後に視点を受け取るのは庭師のオッサンである。彼は立ち去っていく埼玉県警を「気持ちのいい連中」と評する。埼玉県警の尽力もまた観測されていたのだ。


 『ラピュタ』にも奉仕の重奏は認められるだろう。パズーがシータに奉仕して、この二人にドーラ一家が奉仕する。しかしルパンと同様にドーラがパズーに奉仕するのは如何にも不自然だ。作者はドーラとパズーの関係に互酬性を設定してこれをクリアしようとする。要塞を襲撃する際にドーラは砲撃で失神し、ここでパズーに借りを作ってしまう。パズーを連れていく際には「娘が言うこと聞くかも」とわざわざ台詞で説明させてしまう。これは宮崎駿らしくない。
 奉仕の結果、ドーラ一家は全てを失う。彼らの尽力は誰に観測されるのか。「気持ちのいい連中」に相当するのは盗品で身を飾るドーラ一家の絵になると思う。彼らは報われたのであり、その彼らを今度はパズーらが観測するわけで、カリオストロでは放散していった奉仕がラピュタにおいては循環したことになる。


 『ゴールドフィンガー』の終盤がつらい。オッドジョブとの格闘がつらさの踏み台となっていて、格闘につづいて時限装置と取り組む場面になると、そこまで一人で背負い込むのかという単独行動者のつらさが出てくる。ボンドガールに奉仕をしたボンド。しかしその尽力は片務的にとどまるのか。時限装置が手に負えず珍しくテンパったところでギークが手を差し伸べてくる。受け手はギークのまなざしの中に、ボンドは一人ではなく彼のつらさは観測され理解されていたことを知るのである。