内面を錯視させる

 『狂い咲きサンダーロード』は人の成長を観測する物語としては変則的な作りになっている。正調の成長話であれば受け手に成長の過程を明示するものだろう。『百円の恋』(2014)では安藤サクラのジム通いを受け手は観察することができた。『狂い咲きサンダーロード』にはかかる過程がない。仁の成熟は事後的に捕捉される。弟分の茂の成長を仁が認めたところで受け手は初めて仁の成熟を捕捉できたのだった。
 考えてみればこれは不可解である。受け手は仁の動向を観測してきた。それでいて彼の成長を捕捉できなかったのはおかしい。受け手は仁と同化して彼の視点を通して事件を観測していたつもりになっていたのであって、実際は知らない間に彼の内面から分離させられていたのである。
 この操作が行われた箇所は明確に限定できる。丁度、1時間のところで仁はスーパー右翼から出奔する。ここから最後の市街戦が始まるまでの間、およそ18分間をかけて仁の視点を脱落させる操作が行われる。仁の視点で事象を観測するのではなく別の誰かの視点が仁の観測を開始する。それにともない仁の内面が見えなくなる。この18分間は仁に手を焼くスーパー右翼、小林稔侍の視点で叙述され、かつその愛人になった茂の視点で仁の凶状が観測され始める。ところがこれまで仁の視点を経由して映画を観察していた受け手は惰性で仁の内面から引きはがされたことに気が付かない。


 『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』(1976)も男の成熟を事後的に捕捉する物語であり、狂い咲きサンダーロードと同じ構造を持っている。最後の柴又のホームで受け手は寅の内面をさくらをとともに初めて知ることになる。したがって、どこかで寅の視点を脱落させる必要がある。
 この端緒も明確に捕捉できる。1時間6分目からの教室の場面だ。檀ふみから京マチ子がもう長くないことをさくらは知らされる。次の場面はとらやの団欒になる。マチ子を囲んで盛り上がる。その喧騒にさくらの悲痛な顔が何度かインサートされる。視点がさくらに移行したのである。
 自分だけがマチ子の件を知っている。情報差に去来する優越感はともすればさくらにパターナルな傲岸をもたらしがちで、彼女の印象を少し悪くする面もある。ところがマチ子の死後、寅の内面が開かされると情報の優越感がひっくり返る。マチ子の病状を知らず無邪気に軽躁していたその男をさくらは下に見ていた。しかしその軽躁の裏で密かに進行していた男の心の動きを初めて知った彼女は自覚するのだった。本当に何も知らなかったのは自分だったのである。