『寝ても覚めても』(2018)

 唐田えりかが東出に惹かれるのはよくわかる。サイコの東出もそうでない東出も性能高いオスである。東出(サイコ)はともかくとして東出(民間)は受け手の共感を惹くように造形されていて、それに成功している。わからないのは唐田である。東出たちは唐田のどこに惹かれたのか、これがわからない。唐田はダメな人である。初出から一目で地雷だとわからせてしまうマンガのような容姿をしている。挙動のほうも地雷とまではいかないまでも甲斐性とは無縁の人である。
 こうなるとやはり作者を侮りたくなる。受け手は地雷だと明確に認識できる。しかしキャラクターは自律していて肝心の作者がそれに気づいていない。もちろん作者は気づかないふりをしているのである。
 この話はある意味で応答性が良い。唐田えりかは恋愛の宿命感に苛まれる。東出(サイコ)に容貌が似ていたから東出と付き合い始めた。これが女の負い目となる。出会いを特権化しない常識的な立場からすれば、それは意味のない煩悶に見える。実際に物語内でも恋愛の宿命感はスリルの手段にすぎないと判明して、出会いを特権化しない恋愛観に帰結している。唐田の地雷性も同じである。地雷じゃないかと疑えば地雷であるという答えが返ってくる。
 後半の展開は良くも悪くもまことに現代邦画らしい。煮ても焼いて食えないシットコムが終盤でホラー映画になり、そこから次々とクロスジャンルしてどこに連れていかれるのかわからなくなる。この加速感がいかにも現代邦画である。われわれは東出が地雷を踏んだと思ってきた。しかし地雷だと思われてきた唐田こそ地雷を踏んでいたのだった。東出(サイコ)の襲来で地雷が相対化される。嗜虐心を誘われながらも幸福を破壊される唐田への同情が禁じ得なくなる。ところが地雷の相対化はむしろ地雷製造の最終工程なのだ。東出(サイコ)のストーキングを嫌がるどころか女は東出(サイコ)とともに出奔してしまう。予想通り地雷は地雷だったのだか、地雷どころかサイコだった点が予定調和を破る。サイコ同士を番わせてみる痛快な実験のようでもあり、河原で東出が唐田に追いかけられる件ではそりゃ逃げるわなという喜劇にもなる。
 唐田はサイコ化することで冒頭の、そもそもの不審を解消したといえるだろう。東出と東出(サイコ)は唐田のどこに惹かれたのか。東出(サイコ)は唐田に自分と同じものを見出したのだった。物語は、出奔した挙句に東出のもとに帰還してくる唐田の逞しいニヒリズムに成熟を見出すのである。