メルヴィルとウーさん

 英雄本色のTBS放映版を毎晩見ていた時期があった。後になってLD版を見たところ字幕に違和感を覚えた。TBS版の吹き替えには意訳が相当入っていることに気づかされたのである。キットが捜査から外され部長に抗議する場面でソフト版の部長は「諦めろ」と諭す。これがTBS版だと「兄弟じゃないか!」と熱くなっている。偽札の原版を強奪するところでは、偽札工の親父さんは「逃げられないぞ」と告諭気味である。TBS版の親父さんは「気をつけろ」と味方してくれて熱量が高い。


 呉宇森についてはかつてよくわからないところがあった。彼はメルヴィルの『サムライ』ファンを公言するも、メルヴィル呉宇森では作風が違う。サムライのどこを呉宇森が気にいったのか。これがわからない。
 英雄本色にサムライの痕跡を見出すことはできる。ホーが台湾で遭難した直後、刺客がホーの親父さんを訪ねる。この場面だけミステリー調になっていて戸惑うのだが、殊に字幕の出るところ見るに、サムライをやっているのである。
 劇伴でも英雄本色IIの奔向未來日子(キット遭難から殴り込みに至るところのアレ)はサムライである。いずれにせよ些末な踏襲にすぎない。


 20年前、呉宇森つながりで見たサムライには感銘を覚えなかった。今見返せば、アラン・ドロンの断捨離部屋から60年代のパリの街頭を走るシトロエンに至るまで全カットガン見である。20年前のわたしはこの映画の審美感を受容できる器官を欠いていたのだった。ただ筋の方は歳月を経てみると愈々気色悪くなってきた。ドロンのナルシシズムが気持ち悪い。ドロンだから様になるどころではない。ドロンだから洒落にならない。もしドロンではなく呉宇森のようなオッサンが鏡に向かってソフト帽を直すとしたら、これはコントであり愛嬌である。
 事ここに至り、わたしはようやく呉宇森がサムライのどこに惹かれたのか、理解できるようになったのだった。筋金入りのナルシストである呉宇森はサムライの匂い立つようなナルシシズムに惹かれたのだ。しかし呉宇森がナルをやってもコントにしかならない。サムライとのつながりが見えないのである。


 ナルシシズム呉宇森の狂気の核心ではない。サムライの筋を踏襲したのは英雄本色ではなく喋血雙雄(1989)であるが、筋が同じだからこそ呉宇森の羽目の外し方が明瞭になる。
 サムライのドロンは仕事の現場をナイトクラブのピアニストに目撃される。筋はドロンと彼女の距離感を巡って展開される。
 喋血雙雄でもユンファは仕事の現場でピアニストのサリー・イップを巻き込み彼女を失明させてしまう。ところが呉宇森はサリーを放置してダニー・リーに憑依し、ユンファの尻を追いかけるのである。


 英雄本色も随分印象が変わってしまった。学生当時は語り手の意図に沿うようにレイ・チーホンが憎々しくて堪らなかった。今ではチーホンはもっとも好きなキャラクターだ。彼は間違いなく劇中で最も有能な人物である。その甲斐性が好ましくなってきたのだ。


 チーホンには不幸(?)なことにシン役がタイプキャストとなってしまい、喋血街頭(1990)にヒートアップして大変なことになる。もっとも喋血街頭には英雄本色のチーホンに対する呉宇森なりの自省がないわけでもない。今見返せば喋血街頭の事実上の主役はチーホンである。トニー・レオンはチーホンの壮絶な人生の目撃者にすぎない。トニーはチーホンの栄光と悲酸の一部始終を目撃してそれを抱きしめたのであった。