プリドーはどうやってもぐらを知ったのか『裏切りのサーカス』

 感情表出への接近を特権ととらえるべきではなく、それは、当事者性を託し合わせる空間分布の冒険談であるべきだ。その中で、オッサンは、オッサン自身の不行跡な心のはたらきの広がりを受け手とともに知ることだろう。
シネスケのワイの感想)

 映画のジム・プリドーは最初からもぐらが誰か分かっている。少なくともコントロールに言われた時点で誰なのか気が付いたようだ。原作のプリドーにはこういう設定はなかったと思う。では、映画のプリドーは何時どうやってヘイドンがもぐらだと感づいたのか。映画にあって原作に無い場面で気づいたはずであり、それがあの魅惑のクリスマスパーチーなのである。
 あそこはプリドーとヘイドンのBLが発覚する場面なので初見のときはキャーとなってあまり気にならなかったが、繰り返してみるうちにプリドーの芝居によくわからない点が出てきた。そもそもなぜ最後にパーティーの場面が来るのか。あれはプリドーがもぐらに気づいた瞬間を活写しているのだ。
 状況としてはグラスを二つ抱えたヘイドンが誰かを捜している。このヘイドンと会場の隅にいたプリドーが互いに気づいて微笑を交わす。プリドーが変な芝居をやるのはこの後である。「何?」という感じでやや身を乗り出す。彼はヘイドンに違和感を覚えたようだ。
 プリドーはヘイドンのどこに不審を抱いたのか。微笑を浮べたヘイドンはすぐに真顔に戻る。そこには幾分か哀切すら混じっている。なぜそんな顔を?
 表面上は恋愛のもつれである。ヘイドンが捜していた相手はプリドーにとってみれば自分であって然るべきである。ところが、ヘイドンは真顔のまま固まってしまう。プリドーは「?」とならざるを得ない。ヘイドンの視点に立てば彼はアンを捜しているのであって、プリドーを裏切ろうとしている。自然、プリドーに後ろめたくなってしまう。
 おそらく当初はプリドーもそう解釈したはずだ。コントロールにもぐらの件を言われて初めて、ヘイドンの顔に抱いた違和感の正体を遡及的に知るのである。映画版はプリドーが自分の無意識を発見する話といってよい。