満街人都是聖人


 カントは傾向性(好みや感情)に左右される行為を嫌うから、彼からすればむしろ好意で微笑まれる方が厄介じゃないか。好意がなければ行為が生じない点で、傾向による親切は当てにならない。義務感からなされる親切の方が信頼できる。好意があろうとなかろうと確実に行われるからだ。士郎正宗の人倫観は因果が逆であり、頓着なく隣人に親切を尽くせばその親切が汝のうちに人間愛を生み出すとカントはいう。
 彼の道徳観にあって自由とは、意志が自然という傾向性から自律することで達成される。もっともその自然には動物としての人間も含まれる。意志は人間からも自律すべきで、人間が徳をもっているのではなく徳が人間を所有するノリになってくる。この辺は自由意志を奴隷的意志と見なす神学の摂理とも関連する。道徳に所有されることで自然から自由になる。自由と必然が個人の内に結合する。
 自然からの自律がなぜ義務となるのか。傾向からの自律は本能に従う以外に術のない他の動物には出来ない。人間のみがなしうる営みである。そしてカント的な意味での実践とは「汝なすべきゆえになしうる」なのだ。では、自然から脱して道徳を全うした結果、人はどうなるのか。彼は自分を所有する“人間”になる。カントは端的にその状態を「聖くある」と表現する。


 朱子王陽明といった宋代の儒家孟子Loveな人たちだったから、誰もが生まれながらに聖人であると励ましをやる。ただ自分でそうと信じきれないため、みんなそれをみずからの手で葬ってしまっている。
 聖人とは具体的に何か。陽明などはトラブってもテンパらないのが聖人であって、テンパらないために工夫しろという。宋代の儒家はかかる工夫を敬と呼ぶ。彼らはテンパらないために maintain alertness をいうのだが、対象に敬意があればそれが可能だと考える。ただ事前にトラブルを想定して準備するのは駄目で、そうすると想定外でテンパってしまう。工夫とはトラブルに即応する心術のようなものである。
 カントは、徳はたえず進歩していてしかもつねに新たにはじまるという。人倫的格率は技術的格率とはちがって習慣に基礎づけることはできない。カントも激情は抑えろというのだが、ここでの意味は儒家とは少しニュアンスが違っている。徳は必然である。ひとつしかない。しかし人が身をおく状況はいろいろと違っていて、徳に至る過程は誰にも教えられない。ゆえにそれは自由であって尽力が必要だから徳の達成には価値がある。