やくざと四股名とナルシシズム

 やくざの組事務所には独特の時の淀みがある。閑散とした事務所では当番の組員が二三名、ぼーっとしている。基本無職の彼らは暇人でやることがない。
 『ヤクザと憲法』(2016)の二代目清勇会の組事務所を眺めていると、初期北野、特に『ソナチネ』(1993)の偉さが改めて感ぜられた。あの映画のファンタジーじみたやくざ観は実のところ正確で、組事務所の絶望的といってもいいゆるふわが的確に切り取られている。ソナチネのやくざたちは石垣島に毒されてゆるふわになってのではなく、やくざと南洋幻想は然るべく組み合ったのだった。
 清勇会の組事務所はレイアウトを見れば相撲部屋を連想させる。若い衆は事務所の上階で寝泊まりする。フロア全面が畳敷きなっていてそれっぽい。相撲部屋も大抵は一階が稽古場で二階が大部屋になっている。
 組事務所と相撲部屋の共通点は他にもある。
 YOUNG YAKUZA(2007)の組長熊谷正敏の部屋で新人のナオキはドン引いてしまう。キメキメの熊谷のポートレートが飾ってあるのである。侯爵前田利為曰く、裸体画は寝室に掛けるもの。夫人の肖像画は書斎に。自身の肖像画は客間などに堂々と飾るのはおかしい。これは熊谷や『ヤクザと憲法』の川口和秀の物腰にも顕著で出てくるのだが、強烈なナルシシズムが開き直ったように、時折、作中で露見して、そのさも当然した感じにギョッとさせられる。
 相撲部屋にもこの手のナルシシズムがある。高砂部屋の大部屋には朝潮の巨大な優勝額が鎮座している。それを背にして高砂が黙々とちゃんこを食っている。とても正気の沙汰とは思えない。ただ、ナルシシズムと決めつけるには、やくざと同様に高砂は自身の優勝額を前にしてあまりにも平然としている。まるで優勝額の朝潮が自分ではないように。四股名が自分から独立しているかのように。
 先場所、場所中のインタビューで御嶽海が自嘲したことがあった。曰く「今場所もまた御嶽海らしい相撲になった」と。御嶽海はむらっ気である。稽古嫌いである。先場所は中日までに3大関全員に勝利し関脇以下の相手には全敗した。本気を出せば即大関に上がれるだろう。しかし本気が出ない。毎場所、周囲は惜しい惜しいと連呼し当人にも自覚があって「御嶽海らしい相撲」と漏らしてしまう。そこには四股名と自分を分離する力士の典型的な自意識がある。四股名は法人のようなもので自分はそれを構成するパーツの一つに過ぎないような。
 四股名が法人だとすれば、高砂朝潮の優勝額を前にしてもナルシシズムを覚えることはない。朝潮と自分は別の人格である。そして四股名を分離させる働きが精神衛生にかかわると考えれば、むしろ優勝額のおぞましいデカさは然るべきものになるだろう。デカければデカいほど、四股名から自分が分離される。
 やくざのナルシシズムにも同じことがいえるのかもしれない。長期服役の単調な生活はしばしば人を破壊してしまう。彼らはナルシシズムによって仮構の自分を構成して刑務所ボケに抗するのだ。


 以下、余談。
 生活の場としての内務班は曹洞宗の僧堂に似ている。内務班の中央にはテーブルがある。その両脇に寝台が並ぶ。僧堂では机の代わりに文殊菩薩が、寝台の代わりに畳一畳が並ぶ。これは影響があったのか。それとも集団生活の場を合理的に設計した結果、似た形に行きついたのか。
 成沢(1997)には僧堂と内務班の類似を指摘する件があるも、直接の影響はないとされる。佐藤義英の『雲水日記』では内務班の生活は禅堂の清規をモデルしたと書かれている。
 内務班のこのレイアウトは陸自の営内班には引き継がれなかったが、韓国陸軍の内務班には踏襲された。しかも寝台ではなく床張りだからより僧堂に近づいた。おそらくオンドルの関係で旧軍のレイアウトに利点があったのだろう。