『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(1976)

 神保町の件までは古典落語の踏襲である。寅が無銭飲食の老人、宇野重吉を憐れんでとらやに泊める。礼をしたい宇野は満男の画用紙に毛筆で何かをしたため、神保町の大雅堂に持って行くよう寅に頼む。宇野が日本画の大家と知らない寅は嫌がる。宇野の描いた宝珠が寅には玉ねぎにしか見えない。
 この件に出てくる「神保町の大雅堂」という固有名称には山田洋次のリアリズムがよく出ている。大雅堂とは大屋書房である。わたしの神保町定例ルートは、グランデから悠久堂を経由して、そこから右に曲がってすずらん通りに出てボヘミアンズギルド、軍学堂と来て締めが南洋堂だから大家書房は毎回、迂回の体となっている。
 それで、その大雅堂に寅が入っていくと奥にいる店主が大滝秀治である。寅に渡された画用紙の落書きを見て笑った大滝は次第に顔色を失う。やつし事の浄化が爆発するのである。
 画用紙の落書きは7万円(今の物価で15万くらい?)に化けた。血相を変えて寅が帰宅したところで話は古典落語を越える。とらや連には宇野が紙幣印刷機に見え始め、労働がバカらしくなってしまう。挙句に満男のスケッチブックからもう一枚、宇野が戯れに残した画が発見されてしまい、これに発する騒動でとらやの人間関係が一時的に崩落する。
 金が絡むと碌なことにならない。いかにも山田らしい社会時評である。ところが終盤でこのモチーフが再演されると、事は社会時評にとどまらなくなる。
 寅は旅先で芸者の太地喜和子と懇意になる。太地は投資詐欺で200万を失い困窮している。思い余った寅は宇野邸を訪れ太地に絵を送るよう宇野に懇願する。宇野はいう。金は融通できるが絵はダメだ。逆に事に金を介在させたくない寅はなぜ描けないのかと詰め寄る。宇野曰く「絵は仕事だから」。これは何を意味するのか。
 『タンポポ』(1985)で伊丹十三は逆のことをいっている。山田の社会時評は金の介在を厭う。伊丹は金を介在させろという。ピスケンが「タンポポ」の改装を請け負ったとき、タンポポに金を払わせろとゴローが注意をやる。一見、正反対に見える。が伊丹も山田もベースとする倫理観は同一だ。金が絡むと人間関係が変節する。山田はそれを恐れる。伊丹も同じ恐れから金の介在を訴える。もし対価無くやってしまうと人間関係がおかしくなってしまう。
〈賄賂〉のある暮らし:市場経済化後のカザフスタン 岡(2019)に、カザフスタン人のある種の現金会計志向を指摘する件がある。彼らには贈収賄を肯定する向きもあって、むしろ金で済むならそれに越したことはない。金が介在せねば事は借りになる。その、いつか返さねばならぬ借りの未確定さが気持ち悪い。それは他人に自分が所有されてしまう気持ちの悪さといってもよい。
 山田と伊丹が共に恐れるのもこれである。自分の機能を売るのはいい。人格を売るがいけない。もしピスケンが奉仕をしてしまうとタンポポは彼に人格を売ることになる。もし宇野が太地に絵を送ってしまうと太地は人格を売ったことになる。これは仕事だということで宇野は人格の売買を拒絶するのである。寅も無意識にこれを解している。それが彼の場合、金の介在への厭忌として出て来てしまうのだ。
 仕事をバッファーにして人格の売買を回避する。この倫理観の前提にあるのは仕事と人格は分離が可能とするお馴染みの考え方である。仕事を人格から分離できれば、たとえ施行者がどんな人格だとしても一定の作用を期待できる。近代のエートスが地縁、血縁、思想信条、人種を越えて人を信頼できるimpersonalな仕様を要請するのである。
 『寅次郎夕焼け小焼け』が最終的に模索するのは、従属関係の網に太地を組み込まずして彼女を救済する方法である。宇野は結局、絵を贈ってしまう。買い手は現れる。売れば太地は損を取り戻せる。しかし彼女は売らないと宣言する。太地もまた同一の倫理観に支配されていて、もし売ってしまえば気持ちの悪いことになると解しているのである。際どい所で物語は近代を全うしたのだった。