キラキラする人

スペイン要塞を撃滅せよ (ハヤカワ文庫 NV 58 海の男ホーンブロワーシリーズ 2) フォレスターの『スペイン要塞を撃滅せよ』(1952)はホーンブロワー物としては構造が変則的である。通例、ホーンブロワー物はホーンブロワーの内語を通して事態を追っていく。ところが『スペイン要塞』には彼の内語が出てこない。扱われるのはウィリアム・ブッシュとホーンブロワーの出会いである。ブッシュは将来の副官であり『スペイン要塞』の語り部を担う。ホーンブロワーは事態を観察するのではなく観察される側に回る。したがって受け手がその内面を目にすることはない。
 佐々木春隆の『長沙作戦』(2007)が戦記物として同様の作りになっている*1。作中では新米士官の佐々木が連隊長の亀川大佐を観察していく。もっといえば、亀川大佐の一挙一動にキャーキャーする。亀川大佐、外貌は穏和なオッサンである。この人はどんなに戦況が悪化してもテンパることがない。
 長沙攻略は頓挫し連隊は退却の憂き目にあう。配下の部隊が方々で包囲され本部は孤立する。焚火に当たっていた亀川大佐は、どの連絡班も敵の妨害で行きつけないとわかると「オレは寝る。敵が来たら起こせ。捕虜になったらかなわん」というなり外套を被ってごろりと横になり、すぐにイビキをかき始める。佐々木もこれを見習おうと無理に横になるが寝られたものではない。
 師団司令部に出頭すると無理な命令が待っている。部隊は疲弊し、戦力は半減し、弾もない。これはあんまりだと佐々木は憤る。亀川大佐は眉ひとつ動かさず命令を受領して師団参謀と打ち合わせに入る。
 万策は尽き国府軍が本部に押し寄せてきた。大佐は「やっぱりきたな。いつもより勢いがあるようだ」とつぶやき、黙然と端座したままだった......
 亀川大佐が修羅場で沈着な態度を取るたびに佐々木はキャーキャーするのである。あまりに沈着だからついには不思議になってしまう。この人はどうしてテンパらないでいられるのか。作戦後、本人にこれを尋ねても返ってくるのは精神論である。
 フォレスターホーンブロワー物や『駆逐艦キーリング』(1955)はいわばこの謎に取り組んだと解してもいい。連隊長は海軍で謂えば艦長に相当する。長沙作戦でテンパらない連隊長の水面下では何が起こっていたのか。艦長の視点で事件を観測する『キーリング』は彼の内実を赤裸々にする。そこにあるのは涙ぐましいほどの気遣いとやせ我慢の物語である。
 キーリングの艦長クラウスは鬱悶する。瞬間、瞬間、自分は試されている。命令する口調に感情が混じってないか。相手の気を悪くしただろうか。「ありがとう」を言葉終わりに足さねばならぬ。雑用を押し付けて当番の自尊心を損なったのではないか。部下を落ち着かせるほど厳正な態度を取れただろうか。
 仕事の出来ない当直士官を怒鳴りそうになったクラウスは寸前で思いとどまる。この男がこんな馬鹿げたことをするのは彼が度を失っている証拠である。ここで頭ごなしに叱りつければ、彼はどうしていいか完全にわからなくなって萎縮してしまう。この男でも間違いなくやれる仕事をやらせれば、自信を取り戻し、何とか役に立つ海軍士官になれるかもしれない。
 ホーンプロワーもクラウスと同類である。副官のブッシュに言わずもがなの指示を彼はうっかり口に出してしまう。プッシュは規律を重んじるので気持ちを表さないが、ホーンプロワーはできるだけその場をとりつくろうのである。
 配慮の対象は部下の感情にとどまらない。妻のマリアにも気を配る
 仕事で一日中、マリアを放置してしまった。マリアは不機嫌になる。夜、マリアの確保した夕食が酷い代物である。ホーンプロワーはそれをうまそうに食べて見せる。もう何回も彼女の気持ちを傷つけてきたのだから、これ以上傷つけることが忍びない。彼は親切を尽くして無愛想に扱ってきたマリアに埋め合わせを試みる。おかしいほど彼女はよろこぶ。
 ポーンプロワーはこう考える。彼女を喜ばせることもできれば簡単に傷つけることもできる。一人の女の仕合わせが、いや一生が、自分の忍耐心と気転によって明暗を分けるのだ。亀川大佐は回顧する。テンパるのは仕方ないが、いざ俺が慌てると、無用な犠牲が出る。
 テンパっていないわけではない。テンパる対象が違うのである。亀川大佐もクラウスもホーンプロワーも他人に及ぼす自分の感化の大きさを知る人たちである。彼らは自分の希少性に慄いてテンパっているのだ。


 『長沙作戦』は自分の英雄を見つける物語である。同様に『スペイン要塞を撃滅せよ』ではウィリアム・ブッシュがホーンブロワーという自分のヒーローを発見する。ブッシュから見たホーンブロワーは亀川大佐のように沈着そのものだ。ところが、ほかの話でホーンブロワーの内面を散々見せつけられているわれわれには、ブッシュの英雄視が滑稽に見えてしまう。
 このギャップは素朴で素直な人の徳をブッシュから引き出している。ホーンブロワーを知るにつれて、歳も序列も下のこの男にブッシュはキラキラを禁じ得なくなる。自分は現場のことしかできない。しかしホーンブロワーは現場に留まらない人材である。ブッシュがそれを自覚できたことが何よりも彼を好ましくする。


 『裏切りのサーカス』のピーター・ギラムが好ましくなってきた。ラスト、スマイリーと彼がサーカスですれ違う、あの嬉し恥ずかしシーンである。スマイリーの復帰を知った彼はニッコニコになってしまう。
 劇中でギラムの内面を受け手が知る機会はそう多くない。基本的にはスマイリーの内省に話は終始する。アンをヘイドンに寝取られた挙句に失脚したスマイリーはオスとしての自信を喪失している。ブルーレイ特典の未公開場面には、アンとベッドを共にするヘイドンとエプロン姿で卵を焼くスマイリーが納められていて意味深である。
 このスマイリーがアンを取り戻してヘイドンを退治して現場復帰する。スマイリーの視点が軸だから、ギラムがスマイリーをどう評価しているのか、彼の内面がそれほど言及されない以上、よくわからない。したがって、最後にギラムがニッコニコしてしまうと、これほど評価していたのかと一驚を喫するのである。スマイリーの内面がギラムの内省から受け手を引き離していた。ギラムは自分の英雄を見つけたのである。