後期フィヒテ

フィヒテ全集 第11巻 無神論論争 カントの宇宙観にあっては正義はひとつしかないとされる。人それぞれに正義があるとは考えられない。この正義の充足に人は自由を覚えるとカントはいうが、これがわからない。正義を行うのに際し選択の余地がないのなら、やることはひとつしかない。それは自由なのか。
 フィヒテは植物に喩えて説明する。
 一本の樹木に意識があるとする。もし天候不順や養分不足でその成長が阻害され、彼の類が要求する形姿に達しえないとすれば、彼は不自由を覚えるだろう。
 しかし、とフィヒテは自らの説明を覆してしまう。
 この説明に納得できるのは、あくまでここで仮構された植物の狭い意識に限られる。人間の自意識は個別の自然だけでなく自然全体を省察できるから、正義の必然性をも感知してしまい自由の実感を得られない。
 カントやシェリングにはサイコ気質なところがある。それでも一向にかまわんという。
 フィヒテには自然の必然性が耐えられない。
 私は後悔し、歓喜し、善き企てを行いたい。けれども人間が厳密な必然性の仮借なき威力の下にあるのなら、行為するのは決して私ではない。私のうちにおいて自然が行為するにすぎない。その宇宙にあっては、誰も行為の責任を問われないだろう。私の善行は私の功績ではない。私の悪事は私の罪ではない。
 かといって、植物の意識に留まるわけにもいかない。それではインテリに莫迦にされる(本当にそう言ってる)。しかし理性を有する限り私は別様には振舞いえないとすれば、責任能力や自由は廃棄されてしまう。
 冷く死んだように佇み、事象の交替をただ傍観し、何もせずにただ過ぎ去りゆく形姿を映す鏡。このような現存在を私は理解するが耐え難い。では、どうすれば。
 フィヒテは意識の外界に目をやる。そこに見いだされるのは、自分と同じように意識を有する同胞である。苦悶するのは私だけではない。彼らもまた同じ境遇にあるゆえに、私は連帯を覚える。彼らを私と同じように遇したくなる。彼らは私と同様に必然を遂行している。これを妨害してはならない。そのためには私の自由たる必然を制限しても構わない。
 他者を想定すれば、必然の体系を損なわずして必然を制限しうるはずだ。他者の想定たる道徳が存在の実感に対する信仰を生じさせるのである。

 このままの状態であるべきであるなんてありえない。まことに一切は今とは違ったよりよい状態にならなければならないのだ。......しかしかの目的は達成しうる。なんとなれば、私は存在しているからである。(量義治訳)