『星の子』(2020)

 アンビリーバーが野蛮人に見えてくる相対化が話の趣旨だと思われる。が、殊に公教育の場では、生徒の信仰に対して公共の福祉に抵触しない限り相対的な立場を取るのは常識であって、社会的合意があるのではないか、とわたしは考える。この常識に反する岡田将生がサイコであり、どう見ても芦田愛菜の方に分がある。サイコに遭遇するのは交通事故のようなもので芦田にはショックだろうが、その苦悩は文芸的広がりにどうしても欠けてしまう。唐突なあのアニメも、構成の負い目が為せる技に見えてくる。
 公共の福祉から攻めようにも叔父の大友康平のバックネットが芦田を決定的なネグレクトに至らせない。きな臭い話は研修のスリルを煽る手段にとどまっている。もろに公共の福祉を抵触させても、そのままでは児相案件や破防案件になるだけで、それこそ話はテクニカルな課題に収斂しかねない。
 どうすればいいのか。
 劇中でも試みがあるように黒木華高良健吾の世界観が受け手の相対的立場を侵略して揺さぶる事態が必要になってくる*1。本作はこの難事業から逃げたのではあるが、しかしお前考えてみろと言われても易々とは思いつかないわけだから、この辺はあまり辛辣になれないのである。