『罪の声』(2020)

 星野源の印象がよくない。彼は世代的にロスジェネだが、父親のテーラーを相続して就職難とは無縁である。市川実日子との間には一女がある。市川は相変わらず地味カワイイから益々腹立たしい。絵に描いたようなこの幸福な男がいくら我が身を嘆じたところで反感を買うのが関の山である。
 星野は当事者性を錦の御旗に事件の関係者に情報開示を迫る。みな星野にひれ伏してネタを割りまくる。展開の疾走感は好ましい。しかし幸福者の星野には当事者性が欠けるとこちらは考えるから、星野は当事者性に陶酔するように見える。
 次々と明かされる真相もWikipediaに既出のことばかりで、それを小栗旬らブンヤ連がすごい発見のように有難がるから、マスメディア賛歌が趣意のはずなのに莫迦に見える。
 これは何なのだろうか。とうぜん罠である。
 星野の当事者性が脆弱に見えるのは作者の意図である。星野をロスジェネの勝ち組だと捉えてしまうのは、わたしの主観だろうと最初は考えていた。ところが意図なのである。作者は星野をロスジェネの勝ち組と捉えてほしいのである。星野の幸福が、宇野祥平の絵に描いたようなロスジェネ半生を彫琢するのだ。
 かくして、グリコ森永をロスジェネに繋げてしまうアクロバットが、個人の負い目を社会のそれへ織り込む。ところが、ここからがいけない。そもそも曲芸過ぎて、もはやグリコ森永が関係なくなる。
 老人のノスタルジーが始まるのはもっといけない。宇崎竜童一派が宇野のロスジェネ人生を招いたとされ、社会的に包摂された宇野の負い目が再びこぼれ落ちてしまう。事が世代間憎悪のアレゴリーに矮小化され、社会的な負い目は忌避される。矮小化せねば解決しようがないのだ。
 星野のテーラーを肥え太らせる結末はいら立ちを越えて喜劇じみている。キツネ目の男の、韓国映画北朝鮮エージェントのような怪人扱いも笑ってしまうでないか。