あまりにも下士官的な

勇者の帰還 (ハヤカワ文庫 NV 101 海の男ホーンブロワー・シリーズ) 副長のブッシュはある意味で諦念の人である。分を知ってクヨクヨするよりも、能力内で何ができるか実務的に追及したい人である。
 彼には敵の出方を推論する能力がない。フランス語もホイストも球面三角法もみな、自分には無理な課題と分類している。決りきった具体的な問題、ロープがどうの、滑車がどうのとか、張りつめた網が切れたとか、船の操縦術に気をかければいい。
 ブッシュにはホーンブロワーが魔法使いに見える。自分よりも高級な頭を持っている。それを知ったブッシュは目をキラキラさせる。宿命論者の彼は嫉妬することがない。
 ホーンブロワーはときに、ブッシュや艦長付艇長のブラウンといった下士官的人物に羨望を覚える。
 フォレスターは士官と下士官の区別を対峙する課題の違いに置く。下士官の扱うのは答えのある技術的課題である。士官の課題には答えがない。
 ブラウンはロープの結び方、組み継ぎ、帆の巻き上げ、縮帆、操舵、測鉛による測深、オールさばき、すべて艦長よりはるかに腕が良い。寄せ集めの水兵を一瞬の内に掌握するブラウンの手管にホーンブロワーは感嘆する。
 ホーンブロワーはブラウンを宿命論者とする。20年間、一寸先は闇の暮らしに適応するなら、彼は宿命論者とならざるを得ない。この男は、決断に迷う無力感を永久に味わうことはないのだろう。


意志と表象としての世界II (中公クラシックス) ドイツ観念論の世界観は生得主義的である。人間の成長を本来の自分に還っていく追認の過程だと見なす。最初から自分の特性は決まっていて変えようがない。ゆえに、必然性の息苦しさから逃れるべく諸家は各種方便を模索するのだが、ショーペンハウアー下士官的な態度でこれに臨む。彼はこんなことを言う。
 ダヴィデ王は彼の息子がまだ存命している間は、絶望のあまりヤハウェをお祈り責めにしたが、息子が死んでしまうと何も心配しなくなった。人類には宿命に対応できる習性が備わっている(でなければ種として今日まで存続できなかったはず!)。自分の必然性に直面して、到達不能な未来にクヨクヨする暇があったら、目標を自分の限度に合わせて最善を追及すべきだ。必然性に直面するのはむしろ救いである。事が技術的課題に落とし込まれ人生が答えのある問題になるからだ。
 ショーペンハウアー下士官的解法で何よりも優先されるのは、したがってこうなる。
 必然性と折合いをつけるには、必然性を明確に知ることほど確かなことはない。
 では、どうやって必然性を知るか? 尽力して壁にぶち当たる以外に方法がないのである。