狂女考 『セーラー服と機関銃』『二代目はクリスチャン』

 薬師丸ひろ子志穂美悦子も共に狂女でありながら、作中でたどる狂気の軌跡は逆である。前者は狂気を理解する物語である。後者は理解不能になる。


 薬師丸は初期相米のヒロインたちと同様の、天然ゆえにリスク選好に走ってしまう一種の狂人である。佐藤允三國連太郎北村和夫らは悉くロリコンで狂人薬師丸に欲情する。しかし殊に三國の場合、性欲が歪む。狂人には性欲を抱きようがない。抱きようもないものに発情するから、性愛が曲芸的な虐使として表れる。酒井敏也が交接に至らず、ただ薬師丸の胸の中で咽び泣くのも同根だろう。
 狂人の内面は不明である。冒頭が目高組の話から始まり、初出の薬師丸が異様な姿態で狂人たるを高らか宣言するように、薬師丸は目高組の面々によって観察されている。狂人の内面がむき出しになるのは、観測者の全滅を待たねばならない。新宿通りの雑踏に埋没することで、薬師丸の自意識は自身のサイコ性から分離し、狂気を自覚してある発見に至る。男たちを亡ぼした女の魔性に自分自身も流されている。『害虫』(2002)と同じ構図である。


 『二代目はクリスチャン』も魔性の破壊活動を活写する女難ものだ。志穂美悦子すら自身の魔性に流される。ところが、脱狂人化する薬師丸に対し、一見してサイコには見えない志穂は狂気の最果てに到達する。
 志穂が自身の狂気に流される様は動機と事件のかけ違いに端緒がある。中盤で志穂は任侠の血脈をおのれの中に発見する。が、任侠の目覚めはその瞬間だけですぐに傍観者に戻る。任侠発動の要件たるハラスメントは次々と襲い掛かる。志穂はこれと絡もうとしないため、女の優柔不断に天竜組の面々が斃れる体裁となって、彼らの犠牲が任侠解放のタメ動作にならなくなる。むしろ死にざまに脈略がないために、呪いの館に迷い込み次々と悪霊に襲われるホラーと見紛うばかりになる。教会が志穂の魔性を具現化するのだ。
 天竜組全滅の後、再び任侠の目覚めがある。これがまたしても一瞬である。北大路の顛末も異常である。殴り込んでも魔性の流れに身を任せるばかりで、いよいよ主体性を失う。彼女は悲鳴を上げ続けるが、武力だけは志穂なので、まるで長ドスが志穂の意思から自律するかのように作動して室田日出男一派を殺戮する。
 ラストでは薬師丸と同様に志穂は群集におのれを埋没させる。ところが、そこで普通の人になった薬師丸に対し、あれだけの殺戮を起こした挙句に柄本明にすべての責を負わせた志穂は、良心の呵責を覚える様子もなく、にこやかに子どもたちと浜辺を歩く。
 浜辺の海水浴客はまるでオマハビーチを埋め尽くす第1歩兵師団兵士の死体の山だ。自らの魔性で滅ぼした男たちの骸の間を志穂は悠然と進むのだ。