『KCIA 南山の部長たち』 The Man Standing Next(2020)

 政治を儀礼化されたスリラーにするのは、政治日程と数の原理がもたらす抗争である。タイムスケジュールは正統性の調達を競う障害レースを設定する。日程は事件を物化するためのハードルである。体制が違えどこの手の政治スリラーは再現可能だ。たとえば『スターリンの葬送狂騒曲』(2017)。
 『南山の部長たち』は明確なハードルをあえて設定せず、憶測にスリラーを託そうとする。正統性の調達に作者が気をやらないためにハードルは物化されず、障害は他人の心理に滞留する。ハードルの遠近感は顔色で表現せねばならぬ。顔容に注視するから事実上の密室劇になる。元部長クァク・ドウォンが上島竜兵に、“閣下”が柳葉敏郎に見えてくる。顔面依存が事件を宴会芸へ矮小化する。物化しないハードルで事はパロディでしかなくなる。ハードルがないから出来ないことがなくなる。宴会場の裏からイ・ビョンホン当人が忍び込み盗聴をやるまで話が俗化する。もはやスリラーではない。何でもできる=何もできないのである。事態を掌握する手続きがないために、事が達せられても車は路上で立往生するほかなくなる。


 ビョンホンの造形は分裂している。作者が想定するようにビョンホンをリベラルだと解釈すると、閣下に対する愛憎で苦しむホームドラマが成り立たない。最初からリベラルならやることはひとつで悩む必要がない。徐々にリベラルする化する過程で愛憎が芽生えたのならわかるが、移行の契機に言及がない。むしろ因果が逆で、“閣下”への憎悪を説明すために後付けで突如、リベラルの特性が付与される。とつぜん人が変わった印象は否めない。ほんらい仲介となるべき上島竜兵パートが本筋と絡めていない証左である。
 ビョンホンをリベラルとして解釈するのは、彼の造形を統合して事を衝動的犯行にしたくないからだ。が、人が変わる過程の言及に失敗するためますます分裂的になってくる。
 これは作者の邪念である。自分の政治的立場を追うに作者が性急すぎる。
 もちろん邪念に見えるのはわたしが作者と立場を違えるからだ。が、ここで山本薩夫を思い起こしたい。山本の映画ではキャラクターが山本の政治的立場から解離するほど、彼の演出は躍動せずにはいられなくなる。信条を越えて通じ合えるものがあるのだ。