アマル・エル=モフタール & マックス・グラッドストーン 『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』

こうしてあなたたちは時間戦争に負ける (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)  ノーラン映画の来す不安感といえばいいか。喚情要素がことごとく空回りして、創作の難しさを訴えかけてくる。


 敵同士が文通の形で邂逅する。交渉を重ねるうちに相思相愛になる。イヤな上司に文通を気取られ、罠を張るよう強いられる。相手は罠を見抜くも、それに乗らねば今度は対手に危険が及ぶ。故意に罠にかかるのであった。
 わたしは自己犠牲の場面でえっとなった。恋愛関係の醸成は見えている。ただ程度が不明瞭なのだ。自己犠牲に走られるとそこまで想っていたのかと不意を突かれる。突然恋が発起したような筋の破綻を覚えざるを得ない。なぜ唐突に見えるのか。いつもの議論になるが、好きの根拠が欠落している。文学趣味の開陳だけでは、両者とも恋に値する造形として不足している。何か美質が必要である。運動神経、勇気、気転といった、受け手を惹きつけるような特性が。ところが本作は疑似SF特有の恣意の舞台である。何ができて何ができないのか基準が明確でない。いわば何でもできるから美質は備わって当然であり、差別化ができず美質が成り立たない。こういう条件下では恋愛感情は可能なのか。
 筋の構築から逃げている。これが元凶だろう。アステカ人に造船技術を教えて銀を明朝に流し込むといった如何にもな話は出てくる。しかし設定、文体、イベントの新奇さに頼るばかりで、通俗の筋には深入りしない。筋と向き合えば自ずとキャラは立ってくるのではなかろうか。