『ラスト・ラン / 殺しの一匹狼』 The Last Run(1971)

 スコットは声がいけない。声の軽さがいぶし銀の外貌と釣り合わない。この話では声の軽さが技術職の実存の問題を例化している。運び屋のスコットは請負であって犯罪の主体ではない。軽薄なトニー・ムサンテは憎悪を誘ってやまないが、この若造には犯罪の主体をやる胆力がある。ムサンテに寄せるヴァン・ディヴァーの好意には動物的根拠があるのだ。
 総合職と一般職あるいは士官と下士官の分に作者は意識的であり、ムサンテの胆力を実証する場面は方々に用意される。しかし意識的だからこそ結末が予期されうる。ディヴァーはムサンテの指示でスコットと同衾する。スコットが彼女に執着すれば裏切りのリスクが減じるとムサンテは考える。スコットはディヴァーの好意を本気にして北米に逃げようと言い出す。
 問題となるのはディヴァーの本心である。彼女以外にはわからない。が、結末はふたつしかない。ディヴァーがスコットのいぶし銀にやられるか否か。話は生物学的常識に収れんするのか、あるいは邪念が爆発するのか。作者の価値観が試されるのである。しかしどちらにせよ付加価値に乏しい。スコットが騙されて終わる。そんなものは見たくない。他方でディヴァーがオッサンに惚れてしまうロベール・アンリコ的帰結はうれしいが邪念過ぎて乗れない。どちらに落とし込むにせよ何か付加価値が要る。
 アンリコは『冒険者たち』(1967)でレティシアアラン・ドロンよりもリノ・ヴァンチュラを選ばせオッサンの邪念を大爆発させた。しかし作者には邪念の自意識もあった。ヴァンチュラに告った直後にレティシアは遭難する。自然に反抗した罰を被るのである。
 本作の付加価値は、夢破れ浜辺に斃れたスコットに別れを告げるディヴァーの表情にあるだろう。その多義的な表情が下士官の生きざまの哀れを嘆じる。人生の略述で話を落とすのである。