『タンポポ』(1985)

個々人に近代の心性が芽生えるプロセスに着目した90年代の伊丹作品に対し、本作は近代をより文芸的に捕捉しようとする。近代に至ると人はどんな気分になるのか? 近代を美意識として捕捉していた60年代の作者の気分を引きずるのである。宮本信子が山﨑努らと組んでタンポポという場に近代をもたらす筋であるから、個人の心性がそもそも焦点になり難い。


ラーメン屋の近代化と並走する宮本と山﨑の恋愛劇も近代の文芸的評価を促す。それは期限付きの悲恋である。別れの予感が本筋たるラーメン屋の再建にも感化を与え続ける。


助っ人の加藤嘉は産科医である。安岡力也は土建屋である。桜金造は運転手だ。地縁、血縁、階級を越えて本来出会うはずのなかった彼らを結びつけたのは仕事であった。ここに近代の自由があるのだが、それは儚さでもある。ラーメン屋が再生し機能的要件が解消されれば、彼らはまたバラバラになる。必要性が消えてなお集うとすれば、それは徒党でありもはや近代とは呼べない。この儚さが宮本と山﨑の恋愛劇と互換して、ギャルゲの卒業イベントのような感傷が再生劇と恋愛劇を気分の面で統合する。加藤嘉を「仰げば尊し」でホームレスらが送るのは理由があるのだ。


やがて卒業式、つまり新装開店に至る。助っ人たちが次々と姿を消していく。別離の感もあれば、地上を少しだけマシな場所にした誇らしげな達成感もある。安岡力也が山﨑のタンクローリーを見送る。山﨑を追ったカメラはパンをして高架脇の公園へ寄っていく。ベンチには授乳をやる母親が座っている。食欲の始原の風景である。その原初性が近代の運動を俯瞰するのである。必要性に請われ人々が集い、事が終わればまた別の求めに応じて拡散し再び終結する循環。これがたまらなく清らかなのだ(絵面は伊丹らしく下品なのだが)。でも、なぜそう思えるのか。


近代の心性はこう評価する。機能的要件による結びつきは欺瞞がない。必要に応じた集いだから裏切り様がない。相互依存が機会主義的行動を抑止する。人間性の如何を問わず信頼が実効化する。


逆に、EVAに乗らなくともみんなが大事にしてくれるとすれば。近代の心性にとってこれほど気持ちの悪いことはない。信頼を個々の人間性に依存する。これは危険のみならず、人に好意を強いる意味で倫理に悖るとすら見えることだろう。