19世紀美学とオリエント急行の殺人『名探偵ポワロ』

スピットファイアの写真集を広げた男が、機体の美しさを滔々と語って聞かせると、女は不機嫌になった。

「戦争の道具じゃない」

男は窮した。

「でもイギリスを守ったんだよ!」

女は納得しない。

あるミリタリ本の後書きに記された作者痛恨の思い出である。



美学19世紀のメジャーな芸術観は美を実践的文脈から切離そうとした。異教徒が教会を建築として愛でることは可能である。この際、美は善(有用性)から独立している。博物学者は花や鳥の形質を、その目的に従って評価して、それらの完全性を判定する。だが人は、形質の有用性から離れて、形質それ自体を気に入ってしまう。

なぜその形質が美しいのか。ダーウィンならば性淘汰の作用と考え、美を有用性に引き戻してしまうだろう。役立つものが美しく見えてしまう。なぜか。それを美しいと思えないものは淘汰されたから。

カントも美の独立を留保する。教会は目的に拠って一定の形態へと制約される。もしも建物が教会でなければ、人は建物に装飾を取り付けることで、美を損なうかもしれない。建物が教会であるという前提のもとに、建築の美しさを捉えることができる。

が、やはり我慢はならぬ。

自然には意識がなく意味がない。自然は美しくなろうとして、その形質に至ったのではない。偶然、有用だったから、その形質が残存したに過ぎない。こんなのは耐えられない。意味がないのは耐えられぬ。人間がそこに意味を見出せばならぬのだ。自意識なき自然には知覚できぬ美を、人間が見いださねばならぬ。美とは、意味なき自然に意味を見出そうとする際に派出する感情なのだ。

クジャクのメスたちは、最も美しいオスをつぎつぎとえり好みすることによって、意識せずして、自分たちのオスを現存する烏類のなかで最も壮麗なものにまつりあげた。

ダーウィン『人類の起源』




冒頭、イスタンブールの街頭でジェシカ・チャステインが騒ぎを目撃する。群集が石打の刑に処するべく、不貞を働いた女を追っている。動転したジェシカは連れの男に止めるよう訴える。

男であるわたしには、ジェシカの振る舞いが腹立たしい。今さら文化相対主義を云々するつもりはないが、配慮がないのもイヤだ。また、とうぜん連れの男に止められるわけがなく、男はオスとしての面目を毀損させられる。これもたまらない。

ジェシカへの嫌悪は作者の意図である。

騒ぎの一部始終を目撃していたポワロは立ち直れないジェシカを列車内で慰めにかかる。これが実に非モテ仕草で、彼は理屈で攻めるのである。

「助けられないのがつらい」

女の悲嘆に対してポワロは相対主義を持ち出す。

「正義は直視しづらい場合もある。イギリスの絞首刑のように」

刑が重すぎると訴えるジェシカに対しては、罰を承知で掟を破ったと諭す。女は納得できるわけがない。欲しているのは理屈ではない別の物である。ポワロはシュンとなってしまう。

結末は暗い。原作同様に乗客らを放免したのに、この暗さは何事だろうか。ポワロは“女の理不屈”に対する非モテの報復を敢行するのである。最後に彼は、正義を歪めたとジェシカにプレッシャーを与え、放免に罪悪感を覚えさせる。このポワロは非モテの理屈を貫いたのだ。