笠原藤七「二月十八日の悲劇」『あしなか』、1967年 104巻 3号、pp.5-7

新潟の旧中蒲原郡には山に入った男たちが雪崩に巻き込まれた話が伝わる。場所は村松町の門原。一行の人数は五、六名前後。日付は二月十八日。大別して二バージョンがある。「バカナデ(雪崩)」と「熊狩り」である。

二月十八日。男が仏へお供えをした後に4、5名の仲間と山へ入って仕事をする。男のお供えを知った仲間たちは縁起でもないと怒る。夜になると稜線の方から誰かを呼ぶ声がする。仲間は気味悪くなり「お前があんなことをしたからだ」とますます男を責める。たまらず男は呼び声の方へ逃げる。直後、雪崩が起こり仲間たちは全滅。逃げた男だけが助かる。

「バカナデ」には別バージョンがある。お供えで男と仲間が不和になる筋までは同じだが、呼び声の代わりに男の前に仏さまが現れ「出れ、出れ」という。男は仲間に「出れ、出れ」というが、ほかの仲間は留まったので雪崩で全滅する。

「熊狩り」は次のような筋。

熊狩りの一行が悪天候に遭い、ほうほうの態で退散するも途中で一名が落伍する。一行はやむ得ず彼を置いて部落に戻り、改めて救援に向かったが手遅れだった。それから門原では旧暦の二月十八日には山へ入らないようになった。

この話に限っては天保八年と年代が判明している。一行の一人、惣次郎が当時十七才と伝わっていて、戸籍謄本を調査した結果、年代が判明したのである。


論文著者の笠原藤七は昭和三十八年十月に「七名が雪に降りこめられ窒息死」した話を採取した。翌年、この話の詳細を知るべく門原に赴くと「バカナデ(雪崩)」と「熊狩り」が合成したバージョンに出くわした。

熊狩りに出た六、七名がブナ小屋に泊まっていたところ、大雪で閉じ込められ窒息死した。これも二月十八日である。

バカナデ(雪崩)の現場は赤倉川近辺。事件以来、現場はバカナデと呼ばれている。ブナ小屋の方は杉川の奥である。赤倉川と杉川は並走して1km強離れている。

真相を知るべく著者は門原の住人に聞いて回る。ブナ小屋で窒息死した事件を知ってる者はいるが、それ以上の詳細はわからない。やがて、昔話に詳しい老人を紹介され訪ねると、隣家の老婆が詳しいと教えてくれる。ここで全容が判明する。老婆が祖母から次のような話を聞いていた。

カモシカ狩りに出かけた七名が下山予定日になっても帰ってこない。救援隊が上がってみると、一行はブナ小屋で雪に降りこめられ窒息死していた。むしろに包まれた七人が担がれてきたのを老婆の祖母が目撃したのは十二月二十五日。

事件以降、ブナ小屋近辺に泊まる者はお供えをして供養するようになる。これをしないと幽霊が出てつぶやくのが聞こえるという。

「雪崩」バージョンでは、お供えをした男が仲間に叱責された。「熊狩り」が「雪崩」へと希釈される際に、このブナ小屋供養が混線されて伝ったものだろう。縁起が悪いとの叱責は、ブナ小屋の幽霊を含意であり、お供えをして助かった話も同様と推測する。男を呼んだ声も幽霊のつぶやきの成れの果てかもしれない。

余談だが、赤倉川・杉川一帯から北へ5kmのところに門原トンネルという廃隧道がある。現在ここは幽霊スポットになっている。関連は不明である。